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安達(藤九郎)盛長(あだち もりなが)
1135-1200。源頼朝の流人時代からの側近。乳兄弟。安達氏の祖。
父は小野田三郎で陸奥国安達郡一帯を支配していた豪族。盛長は晩年に安達姓を名乗るようになりました。
通称、藤九郎。法名は蓮西。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、野添義弘さんが演じられます。

安達盛長の簡易年表
時期 | 年令 | 出来事 |
---|---|---|
保延元(1135)年 | 0 | 誕生(父:小野田三郎兼廣) |
治承4(1180)年 | 46 | 頼朝の挙兵に当初から従う 使者として下総国の豪族「千葉常胤」を説得し味方につける |
元暦元(1184)年 | 50 | 上野国の奉行人に |
文治5(1189)年 | 55 | 奥州合戦に参加。 陸奥国安達郡を領して本貫とし、安達氏を称する。 |
正治元(1199)年 | 65 | 頼朝の死後、出家「蓮西」と名乗る 十三人の合議制の一人となる、梶原景時を弾劾する |
正治2(1200)年 | 66 | 死去 |
安達盛長周辺の系図
安達盛長の妻「丹後内侍」は、頼朝の乳母だった「比企尼」長女です。
頼朝を物凄く心配し可愛がっていた比企尼が、婿の盛長に頼朝に仕えるように言ったのは明らかですね。
そして、比企尼繋がりの安達盛長の娘を、頼朝の弟範頼が妻としています。
比企尼
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藤原遠兼 安達盛長=====丹後内侍 河越重頼室 平賀義信室
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足立遠元 景盛 時長 源範頼室
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※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
娘婿 源範頼との関係
安達盛長と源範頼は娘婿ということもあり、盛長の陰に範頼ありという感じです。
修禅寺に二人の墓がありますし、この鴻巣市の放光寺と範頼の館跡とされる息障院は近い距離にあります。
源範頼は三河守でしたが、盛長は三河守護に就いたこともあります。


子「景盛」は頼朝の落胤?
源頼朝には島津忠久をはじめ多くの落胤説がありますが、安達盛長の子「景盛」もその一人。
頼朝の乳母である「比企尼」が、自分の娘「丹後内侍」に頼朝の世話をさせていたが、内侍がみごもってしまった。流人だった頼朝の子だと平家側にばれると大変な事なので、安達盛長と結婚させたという。
頼朝が甘縄の安達館に頻繁に訪れていることも、落胤説の後押しをしているみたいですね。
また、盛長死後の、安達一族は鎌倉時代の中ごろに、三浦一族と宝治合戦でやりあう重要な一族です。
安達景盛以下は下記コンテンツをご覧ください。
安達氏ゆかりの地
安達盛長邸跡(鎌倉市)
鎌倉市長谷の甘縄神明神社の場所が、安達盛長邸跡だと言われています。
放光寺(盛長公開基)
▶ 埼玉県鴻巣市糠田1435|🅿あり|
糠田山放光寺の開基が安達盛長とされています。本堂に安達盛長の坐像が安置されています。
出家した後の「蓮西(れんさい)」と名乗っていた時期の姿で、水晶の玉眼が入れられており、作成年代は南北朝時代とのこと。


安達盛長公墓所
境内には墓所もあります。
修禅寺にある安達盛長公の墓として安置されたいたものを、寄進されたもの。

安達藤九郎盛長の墓(修善寺)
修善寺の温泉街から、細い道を登って行った場所にあります。
安達藤九郎のお墓が修善寺にあるのは、婿だった頼朝の弟「源範頼」の墓がココなのが関係しているでしょう。
後に三河守護に任じられているのも、婿の範頼が三河守ですしね。


※修善寺温泉街には、安達藤九郎盛長の墓までの場所が書かれた道標がないので、googlemapや観光案内所で貰える地図を見ながら行きましょう。
安達藤九郎盛長警護の跡(三島大社)
三嶋大社の鳥居をくぐってほど近い場所に、藤九郎の警護の跡があります。
源頼朝が平家打倒に立ち上がった治承4(1180)年に、源家再興を祈願して百日間、早朝、蛭が島から三嶋大社に日参するときに、藤九郎盛長が警護した場所。

