足利持氏|将軍の座を狙い、戦いに明け暮れた第4代鎌倉公方

足利持氏|将軍の座を狙い、戦いに明け暮れた第4代鎌倉公方

2023-02-25

足利持氏(あしかがもちうじ)

1398~1439 第4代鎌倉公方(在職:1409~1439)
上杉禅秀の乱から永享の乱まで、野心溢れる人生を過ごし、関東での戦乱のきっかけを作った人物

足利持氏の簡易年表

時期年齢出来事
応永5(1398)年0誕生(父:足利満兼、母:一色氏の人物)
応永16(1409)年11父「満兼」が死去、第4代鎌倉公方に就任する
応永23(1416)年18上杉禅秀の乱
上杉禅秀(氏憲)&足利満隆がクーデターを起こす
 →室町将軍方が味方となり鎮圧
正長元(1428)年30第6代室町将軍に足利義教(天台座主)が就任
 →足利持氏は不満を持ち、室町幕府と対立姿勢をとる
永享10(1438)年40永享の乱
 上杉憲実(関東管領)と足利持氏の戦い
永享11(1439)年41足利義教が憲実(関東管領)方に軍勢を派遣、持氏は幽閉
 鎌倉・永安寺にて自害
永享12(1440)年結城合戦
 持氏の遺児「春王丸・安王丸」を担いだ結城氏朝が蜂起

足利持氏周辺の系図

足利基氏の時代は、まだ室町幕府将軍と鎌倉公方(鎌倉府)は仲良くやっていたようです。

しかし、時代を経るにつれ、室町幕府は関東までも支配を目論み、鎌倉府は関東の自立を守りと、考え方が異なってくるようになり、対立していったようです。

1.足利尊氏
 ┣-------------┓        
2.足利義詮(室町将軍)   1.足利基氏(鎌倉公方)
 |             |
3.足利義満         2.足利氏満
 ┣------┓      ┣----┳---┳------┳
4.足利義持  6.義教     3.満兼  満隆  満直     満貞
        |      |       (篠川御所) (稲村御所)
       8.義政     4.持氏 → 義持から諱
        |      ┣-------┳-----┳-----┳
       9.義尚   賢王丸(義久)   安王丸   春王丸   5.成氏
              永享の乱で死    結城合戦で死

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

上杉禅秀の乱

応永23(1416)年に起った戦乱。
上杉氏憲(後の禅秀|前関東管領)が、足利持氏に対して起こした反乱。

足利持氏が鎌倉公方になった時は11歳とまだ若く、当時関東管領だった上杉氏憲(犬懸上杉家)の補佐を受けていましたが、成長するに従い疎んじるようになり、上杉憲基(山内上杉家)を重用し始めます。

上杉氏憲が関東管領を辞し、氏満の子「満隆」は持氏の専制化に脅威を覚え、この二人が手を組んで足利持氏の御所を襲いました。

犬懸上杉家|永享の乱に繋がる鎌倉公方との対立、上杉禅秀の乱ゆかりの地(石碑を読む)
今回は浄明寺に建っている「犬懸上杉家」に関する石碑を読んでみました。室町時代の鎌倉の状況について、結構詳しく知ることができる内容で、為になると思います! 場所的…
1192-diary.com

一旦は敗れて、駿河国へ落ち延びた足利持氏ですが、京都にその情報が伝わると、足利持氏救援、上杉氏憲打倒の方針が決まり、鎌倉へ総攻撃。

上杉氏憲・足利満隆は雪ノ下で自害、犬懸上杉家はココに滅亡しました。

藤沢敵御方供養塔

藤沢市の遊行寺境内にある供養塔。
上杉禅秀の乱で戦死した、敵・見方を供養するために、乱の3年後に建立されました。

遊行寺境内

永享の乱

永享10(1438)年に、足利持氏と上杉憲実が争った出来事。

ここに至るまでに伏線が沢山あります。たとえば、1.上杉禅秀の乱後に敵対した京都扶持衆の討伐に動く。京都扶持衆は室町幕府と直接主従関係を結んだ諸氏。2.第6代室町将軍「足利義教」の就任に不満を持ち改元(正長→永享)を用いなかった。3.室町将軍とのパイプ役、関東管領「上杉憲実」を遠ざけ、持氏派の他上杉家や妻方の一色氏を抜擢など。

足利持氏と室町将軍&関東管領の間に不穏な空気が漂い始めていました。

トドメとなったのが、足利持氏の嫡子「賢王丸」の元服式、名前を勝手に将軍家の通字「義」を用いて「義久」と名付けたこと。これは幕府への明確な敵意とみなされるため、上杉憲実は持氏を諫めますが持氏は当然に無視。

ここで、上杉憲実は持氏討伐に動き、持氏も憲実討伐に動きました。

結末は、室町将軍「足利義教」が、上杉憲実(関東管領)方を救援したため、鎌倉公方軍は敗北。
足利持氏は出家、幽閉され自害、子の義久(賢王丸)も報国寺で自害しました。

結城合戦

永享12(1440)年 結城城で行われた合戦

鎌倉公方「足利持氏」が亡くなって空席となった鎌倉公方に、室町将軍「足利義教」の実子を送り込もうとしたことで、問題が再燃。

室町将軍の関東支配に、異なるを唱える鎌倉公方(持氏の近臣)派が各地で挙兵。
結城城では、持氏の遺児「安王丸・春王丸」を擁立した結城氏朝が挙兵、自らの居城に立てこもりました。

なかなか落城させることが出来ませんでしたが、最終的には落城。結城氏朝は討ち取られ、安王丸・春王丸は捕縛されました。

なお、曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」は、この結城合戦から物語がスタートします。
結城氏朝軍の中に、安房里見氏も参陣していて、敗北したため安房に逃げ延びます。

南総里見八犬伝|長編小説から学ぶ、鎌倉に攻め込んだ安房里見氏について
南総里見八犬伝とは 江戸時代後期(1814刊行-1842完結)に、曲亭馬琴(滝沢馬琴)が28年かけて完成させた長編小説。 完全空想ものではなくて、歴史上の出来事…
1192-diary.com

結城城跡(茨城県結城市)

室町時代に築かれた平城。
守りやすく、攻めにくい城だったようで結城合戦では、室町幕府軍を相手に1年程度籠城できたそうです。

足利持氏ゆかりの地

ここでは足利持氏(第4代鎌倉公方)とその子らのゆかりの地を集めてみました。

別願寺(鎌倉市)

別願寺は鎌倉市大町にある時宗のお寺。創建時は能成寺(真言宗)
室町時代は鎌倉公方の先祖代々の墓や位牌をまつる菩提寺だったそうです。最近(令和4年頃)、本堂が建替えられました。

境内の本堂脇の墓地には、高さ3.2mの大きな石塔(宝塔)が建っていて、足利持氏の墓と言われています。

足利公方邸跡(鎌倉市)

室町時代の前半、鎌倉公方として関東一帯を支配した足利氏の屋敷跡です。近くには、浄妙寺、報国寺など足利家ゆかりの寺院が沢山あります。

足利公方邸|鎌倉時代の重要な鎌倉街道(下道)沿いにあった鎌倉公方・足利一族の館跡
今回は金沢街道沿いにある「足利公方邸」の石碑を読んでみました。鎌倉幕府創立のときから、足利家はずーっとここに住んでいたんですね。鎌倉幕府に反旗を翻した「足利尊氏…
1192-diary.com

永安寺跡(鎌倉市)&永安寺(世田谷区大蔵)

現在は廃寺ですが、永享の乱で敗れた足利持氏が自害した寺院跡、今は私有地ですが石碑のみ建っています。永安寺があった場所は、瑞泉寺の総門の南側の谷だそう。

【私有地】永安寺跡|室町幕府と対立した、第4代鎌倉公方自刃の場所(石碑を読む)
永安寺跡(ようあんじあと) 今回は「永安寺跡」の石碑を読んでみることにしました。ちなみに、この石碑、現在は私有地内にあるので、実際に石碑を見ることは出来ません。…
1192-diary.com

足利氏満(第2代鎌倉公方)を弔う為に建てた臨済宗の寺院でした。

鎌倉では廃寺になった永安寺ですが、足利持氏の家臣が別の場所で寺院を再建しコチラは今も残っています。

龍興寺(加須市)

臨済宗円覚寺派のお寺。平安時代初期に建てられた、室町時代の足利家ゆかりのお寺です。
境内に、足利持氏の子、春王丸・安王丸の供養塔(県指定史跡)があるようです。

龍興寺の公式HP

金蓮寺(岐阜県垂井町)

岐阜県垂井町にある天台宗の寺院「金蓮寺(こんれんじ)」
足利持氏の子、春王丸・安王丸が京都への護送中に斬られた場所。

古河市

足利持氏の子「永寿丸(後の足利成氏)」が、戦乱によって鎌倉から拠点を古河に移して古河公方として過ごした場所。
歴史小説家で、古河市名誉市民(&鎌倉市名誉市民)の永井路子さんの生まれ故郷でもあります。

下総古河散策(茨城県古河市)|鎌倉と古河を繋ぐ古河公方ゆかりの地巡りで鎌倉再発見
茨城県古河市には鎌倉と江戸ゆかりの2都市とのつながりの深い場所です。 JR古河駅 鎌倉繋がりでは古河公方となった「足利成氏」江戸繋がりでは徳川の譜代大名の「土井…
1192-diary.com

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

PAGE TOP