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大物(だいもつ)
阪神電車尼崎駅の一つ隣にある「大物駅」。
普通電車しか止まらないローカルな駅ですが、源義経ゆかりの地でもありました。


大物側緑地に設置されている「大物」の説明板には、
大物町は平安時代以来反映した町場。
「大物」説明板 尼崎市教育委員会
地名の由来は、平安時代に港町として栄えていた尼崎の木材集積地があって、この巨材を「大物」と呼ばれていた。
との説が有力だそうです。
義経が船出した時、波によって引き戻されたことから、大物浜(大物浦)は荒々しいイメージを植え付けることになります。
謡曲「船弁慶」
義経が九州(西海)へ落ちようとしたときに襲い掛かる暴風。
これは、壇ノ浦で亡くなった平家の怨霊が行く手を阻んだためで、特に、薙刀を振りかざして襲い掛かる平知盛の亡霊に対して、刀を抜いて戦おうとした義経。
しかし弁慶は亡霊に刀は役に立たないと数珠を拝んで一心に祈禱し亡霊を退散させたという話です。
義経が大物浜から船出した背景は?
平家追討の功労者だった義経ですが、単独行動や無断任官など、頼朝の勅勘を蒙り、許しを請うも許されれず、それどころか暗殺まで計画されるしまつ。
最終的には兄頼朝に啖呵を切り謀反を起こしましたが、逆に朝敵となり頼朝から追われる身になりました。
腰越状
文治元(1185)年5月
鎌倉に入ることを許されなかったために腰越に滞在し「腰越状」を書き、兄頼朝に許しを請うも叶わず、捕虜として連れてきた「平宗盛」を、再び京へ連れ戻すことになった義経。
腰越を離れるときに、兄頼朝に啖呵を切ってしまったため、兄弟仲の亀裂が決定的になり、兄頼朝から追われる身となってしまう。
土佐坊昌俊による暗殺未遂
文治元(1185)年10月
頼朝の命を受けた、土佐房昌俊が義経の住む六条堀川邸を襲うも失敗し、逆に討ち取られてしまった。
頼朝の上洛
文治元(1185)年10月29日
源義経、源行家らの謀反を征伐するために、頼朝が京に向けて出発した。
巳の刻(午前10時頃)に出発、土肥実平が先陣を勤め、千葉常胤が後陣。
後日、黄瀬川についた頼朝は、「京都の事について、情報を収集し対応を検討するために」しばらくここに逗留すると御家人に伝えた。
文治元(1185)年11月6日
兄頼朝の出兵を知った義経は京を離れる決断をし、行家と共に、大物浜(大物浦)から船出しようとしたが、突風で船が転覆し、一味は散り散りに。義経に従うものは、武蔵坊弁慶、静御前、他2人のわずか四人。
この夜は天王寺辺に宿泊し、その後、義経達は消息を絶つ。頼朝は、義経が京を落ちたことを知ると、鎌倉へ帰還した。
大物浜・源義経ゆかりの地
大物浜に点在するゆかりの地を巡るには、阪神電車「大物」駅が便利。
レンタサイクルなどはありませんが、徒歩で十分に回れる距離です。
大物川緑地 歴史の散歩道 案内図
大物川緑地(大物川を埋め立てて造られた緑地公園)に設置してある案内図。
伝義経弁慶隠家跡、大物橋跡、など細かく書かれていますが、「伝静なごりの橋」は下記地図とは違う場所にありますので注意です。

義経弁慶隠家跡碑(大物主神社境内)
▶ 兵庫県尼崎市大物町2-7-6|🅿あり|
以前は、大物主神社の東側の道路上に建てられていたようですが、空襲で焼失した為、現在は境内に設定しているようです。
頼朝から追討された主従が西国へ船出(1185)するために、当社東側にあった七軒長屋に逗留したという口伝を保存するため
義経弁慶隠家跡碑 説明板
と書かれています。口伝なんですね。


境内に碑を設置することになった大物主神社。
説明板には義経についての内容も少し記載されています。


伝静なごりの橋(辰巳八幡神社境内)
▶ 兵庫県尼崎市東本町1-42-4|🅿あり|
以前は、大物川に架かっていた橋の近くに立っていたと思われる石柱。
今は、国道43号線より南側にある、小さな辰巳八幡神社の境内に建っています。説明板などはありません。

妾と一緒に落ち延びるのはいかがなものかと、弁慶に諭されたかどうかは分かりませんが、大物浜から船出する義経一行を静御前はこの橋から見守っていたのかもしれません。
その後、静御前は冬の吉野の山中で吉野山蔵王堂の僧に見つかり、執行(管理者のような人)を経由して鎌倉へ送られ、有名な鶴岡八幡宮の舞殿で義経を思って舞を踊ることになります。

