後白河天皇|平安末期の激動の時代に約30年上皇として君臨した第77第天皇

後白河天皇|平安末期の激動の時代に約30年上皇として君臨した第77第天皇

2021-09-26

後白河天皇(雅仁親王)

1127-1192。

鳥羽天皇の第四皇子として生まれたため、皇位継承とは無縁で気楽な立場で、大好きな今様に明け暮れる生活を送るも、父鳥羽天皇の死去をきっかけに、政争に巻き込まれていく。

12歳で元服、29歳で天皇に即位し、32歳に上皇となり院政を開始、43歳で仏門に入り法皇となる。

院近臣、平氏、源氏などと強調し、時には対立しながら30年以上日本のトップに君臨し続けた人物です。

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、西田敏行さんが演じられます。
NHKの大河ドラマ「平清盛」では、松田翔太さんが演じられました。

後白河天皇の簡易年表

年代年齢出来事
大治2(1127)年0第四皇子として誕生(父:鳥羽天皇、母:待賢門院)
保延5(1139)年12元服して二品に叙す
久寿2(1155)年29天皇に即位(守仁親王が即位するまでの中継ぎとして)
保元元(1156)年30保元の乱
後白河天皇方の勝利。崇徳上皇は讃岐へ配流。
保元3(1158)年32守仁(二条天皇)に譲位し、太上天皇(上皇)に
平治元(1159)年33平治の乱
藤原信頼・源義朝ら、後白河上皇の三条殿を襲撃。
永暦元(1160)年34焼失した三条殿に代わる法住寺殿の造営に取り掛かる
嘉応元(1169)年43仏門に入り法皇となる
承安4(1174)年48平滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発
安元3(1177)年51鹿ヶ谷の陰謀
平家打倒の謀議が露見
治承3(1179)年53平清盛、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。「梁塵秘抄」成立
治承4(1180)年54以仁王(後白河法皇の第三皇子)、平氏追討の令旨を出す
寿永2(1183)年57法住寺合戦
源義仲(木曽義仲)、後白河法皇の法住寺殿を襲撃
建久元(1190)年 65源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面
建久2(1191)年66六条殿(長講堂)において崩御

後白河天皇周辺の系図

皇族の勢力争いを把握するには、天皇だけの系図ではよくわかりません。
母が誰なのか?がとても大切です。

鳥羽天皇
 ├------┬-------┬
崇徳天皇   後白河天皇   近衛天皇
 ||
後白河天皇
 ├------┬-----┬
二条天皇   以仁王   高倉天皇
 |            ├------┬
六条天皇         安徳天皇   後鳥羽天皇

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

鳥羽天皇の子は下記系図以外に沢山いますが、重要な妻は待賢門院(中宮)と美福門院(皇后)です。

後妻の方が大切(若いし現役妻)にされるので、美福門院が産んだ「近衛天皇(体仁親王)」を天皇にしようと動き、永治元(1141)年に近衛天皇が即位。鳥羽上皇に強引に迫られ崇徳天皇はしぶしぶ上皇となります。

※近衛天皇即位後の系図

待賢門院璋子=====鳥羽法皇=====美福門院得子
 ┏------┫       ┣-----┳
崇徳上皇(1) 後白河天皇(4)  近衛天皇(9)  八条院(暲子内親王)

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

しかし、近衛天皇が久寿2(1155)年、17才で死去。
次の天皇は誰にするか?で各人の思惑が交錯していきます。

待賢門院璋子=====鳥羽法皇=====美福門院得子
 ┏------┫       ┣-----┳------------┳----------┫
崇徳上皇(1) 後白河天皇(4)  近衛天皇(9)  八条院(暲子内親王)  守仁親王(養子)  重仁親王(養子)
 |      |                          |          |
重仁親王  二条天皇(守仁親王)                   |          |
 |      ┗--------------------------┛          |                    
 ┗--------------------------------------------┛

なぜ崇徳天皇と戦った?

なぜ平家と仲が悪くなったのか?

後白河天皇ゆかりの地

高松新明神社(高松殿址)

平安時代中期の頃からあった源高明の邸宅で焼亡した後、新造し、久安2(1146)年に近衛天皇の内裏となる。久安2(1155)年に、後白河天皇がココで即位し、保元2(1157)まで内裏(高松内裏)となった。

1156年 保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集した。

法住寺殿(後白河上皇院政庁)

法住寺殿は、保元3(1158)年8月、皇子の二条天皇に譲位して上皇になった後白河院が、約30年にわたり院政を行った政庁。

境内には、新熊野神社・新日吉神宮・蓮華王院(三十三間堂)・法住寺跡があり、後に、後白河陵天皇法住寺陵が作られた。

法住寺殿|後白河上皇が約30年にわたり院政を行った広大な政庁
法住寺殿(後白河上皇院政庁) 東山の麓から西は鴨川河岸、東西は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、地名から法住寺殿と名付けられました。蓮華王院(三十三間…
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長講堂

正式名称は「法華長講阿弥陀三昧堂」
寿永2(1183)年に後白河法皇が晩年を過ごした院御所「六条殿(六条西洞院)」内に建立した持仏堂が始まり。

後白河法皇は莫大な寺領を長講堂に寄進して、その経済的基盤を築き没する直前に、寵愛していた丹後局(高階栄子)の子「覲子内親王(宣陽門院|後白河天皇第6皇女)」に譲った。

覲子(きんし)内親王は、建久6(1195)年に上洛した源頼朝・北条政子夫婦から拝謁を求められるなど、権勢を誇った。

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