法住寺殿|後白河上皇が約30年にわたり院政を行った広大な政庁

法住寺殿|後白河上皇が約30年にわたり院政を行った広大な政庁

法住寺殿(後白河上皇院政庁)

東山の麓から西は鴨川河岸、東西は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、地名から法住寺殿と名付けられました。蓮華王院(三十三間堂)は法住寺殿の敷地内に建てられました。

ここでは、昔の法住寺殿の敷地内にあって、後白河上皇ゆかりの神社仏閣や史跡をまとめました。

法住寺殿址碑

法住寺殿は、保元3(1158)年8月、皇子の二条天皇に譲位して上皇になった後白河院が、約30年にわたり院政を行った政庁。

寿永2(1183)年 対立した木曽義仲の夜襲に会い焼失しました(法住寺合戦)

法住寺殿跡碑は、現在、蓮華王院(三十三間堂)の拝観ゾーンにあり、見るには拝観料が必要です。

法住寺

保元3(1158)年、後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定めて、上皇となってお住まいになられました。
もともと989年に天台宗の寺として建てられ広大な敷地を占めていましたが、火災で荒廃していたと。

院の政庁「法住寺殿」の名前の由来となった寺院です。

本尊の不動明王像(身代り不動尊像)は、木曽義仲の法住寺殿焼き討ち(法住寺合戦)の時に、後白河法皇の身代わりになったと伝えられ、守護仏として崇められていました。

新熊野神社

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、熊野信仰が盛んだった平安後期の永暦元年(1160)年、後白河上皇が紀州熊野の神をこの地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請して創建。法住寺殿の鎮守。

上皇の命を受けたのは平清盛。熊野の土砂や伐木を用いて社域や社殿を築いた。

拝観は無料ですが、参拝時間は午前9時~午後4時まで、土日祝日は閉門していますので、社会人の方はなかなか難しいかもしれません・・・。

新日吉神宮

今日吉神宮(いまひえじんぐう)は、永暦元(1160)年、後白河上皇が、法住寺殿内に比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)を勧請したのが始まり。

当初は、智積院南側に創建されたが、明治30(1897)年にこの地に移った。

蓮華王院(三十三間堂)

正式名称が蓮華王院(国宝)

長寛2(1164)年に後白河上皇院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。創建から800年昔に変わらぬ姿でこの場所に伝承されています。

覲子(きんし)内親王は、建久6(1195)年に上洛した源頼朝・北条政子夫婦から拝謁を求められるなど、権勢を誇った。

後白河陵天皇法住寺陵

後白河天皇の法住寺陵は、蓮華王院(三十三間堂)の東側、法住寺殿の南殿(常御所)があった場所にあり、宮内庁が管理しています。

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