富士川の戦い|水鳥に驚いた平家軍が一戦も交えず敗退。源平合戦の一つ。

富士川の戦い|水鳥に驚いた平家軍が一戦も交えず敗退。源平合戦の一つ。

富士川の戦い概要(吾妻鏡より)

頼朝、甲斐源氏らと黄瀬川で合流

治承4(1180)年10月18日

夕方、頼朝は黄瀬川に到着し、10月24日を合戦の日と決めた。
そこに以前からの約束により、甲斐源氏、信濃源氏、北条時政が二万騎を軍勢を率いて合流。

水鳥に驚いた平家方が撤退

10月20日

頼朝が駿河国賀島(静岡県富士市)に到着した。
平家軍は、総大将 平維盛 (重盛嫡男) 、平忠度(清盛異母弟)、平知度(清盛7男)らが、富士川の西岸に陣を張った。

夜半過ぎ、武田(太郎)信義が計略を企て、密かに平家方の陣の背後を襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥の一群が飛び立ち、その音に平氏は驚きあわてた。

平氏方の次将藤原忠清(平景清の父)
「東国はみな頼朝に味方していて、すでに包囲を逃れ難く。急いで京都に戻り、他に作戦を考えるべきかと」

平維盛以下の平氏軍はその言葉に従い、夜が明けるのを待たずに京都へ戻った。

千葉常胤らが東国の足固めを進言

10月21日

平維盛(重盛嫡男)を追いかけ攻めるため、兵士たちに上洛するように命ずるも、千葉常胤三浦義澄上総広常たちが、頼朝を諫めて言った。

常陸国の佐竹氏が軍を率いて、服従していない 。他にも東国には武勇におごるものが数多いる。なので、東国を平定してから西国に至るべきです」

頼朝はこの諫めに従い黄瀬川に戻った。そこで義経と再会する。(対面石八幡神社

対面石八幡神社(静岡県清水町)|頼朝と義経が対面した場所
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富士川の戦いゆかりの地

富士川の戦い(富士川の合戦)に関する史跡は、広範囲に広がっています。
まだ、坂道も多いので、車での移動がおススメです(駐車場探しには苦労するかと・・・)。

本数は少ないものの「岳南電車」もおススメです。

平家越えの碑

▶ 静岡県富士市入山瀬4-9|🅿なし|

治承4(1180)年10月20日 源頼朝は軍勢を率いて平維盛を総大将とする平家軍と富士川をはさんで対陣しました。

その夜半、甲斐源氏の武田信義の軍が密かに平家軍の背後にまわって夜襲をかけようとしたその時、あたりに眠る幾万かの水鳥が、不意に羽音をたてて飛び立ちました。これを敵襲と思った平家軍は陣を乱して西に敗走し、合戦は一戦にも及ばず源氏軍の大勝利に終わりました。

市内にはこの「平家越」をはじめ「呼子坂」「和田川」など、富士川の戦いにゆかり深い地名や名前が残っています。

平家越には、富士川の戦いについてので合戦絵図があり、千葉常胤・源頼朝・佐々木高綱などが描かれています。

和田義盛神社

▶ 静岡県富士市今泉上和田1379|🅿なし|

治承4(1180)年十月 富士山麓の加島平野に源平の大合戦が展開されようとしたとき、源氏の大軍は、今泉・原田の高台を中心に、依田橋・鈴川・鮫島あたり一帯に陣を敷いた。

勢子村(今泉村)付近の守りを頼朝から命じられた和田義盛は、東泉院付近に本陣をおき、南側を流れる川に逆茂木をしかけて厳重に警備した。

そのため、のちにその川を和田川と呼び、陣を強いた場所を和田城、その付近の土地を「和田」と呼んだ。そして土地の人々は和田義盛をこの地の守護神として神社を建てた。

和田神社付近の地名には、和田が付く場所が沢山あります。
富士川の合戦の歴史跡。地名は本当にいろいろな歴史を残していて大切ですね。

呼子坂

▶ 静岡県富士市宇東川西町5-22|🅿なし|

治承4(1180)年 富士川の合戦に際し、源頼朝率いる源氏の軍勢がこの付近の高台一帯に陣を敷き、ここで呼子を吹いて軍勢を集めたことからこの呼び名が付けられたと伝えられています。

今は、普通の住宅街で、坂の下に小さな説明板が建っているだけの場所です。

回り切れなかった史跡も沢山残ってしまいました。
機会があれば、追記していきたいと思います!

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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