藤沢宿|鎌倉市のお隣「藤沢市」は、江戸時代に栄えた東海道6番目の宿場町

2020-08-23

藤沢宿の成り立ち

「藤沢宿」は、東海道の第6番目の宿場。
宿場は古代から整備されていったのですが、近世の宿場の整備は徳川家康が関ヶ原の合戦後に始めたようです。

参勤交代もあり、宿場町は結構栄えたらしく、藤沢宿には40~50件程度の旅籠(宿屋)があったとか。

明治時代になって、電車開通や自動車の普及で廃れてしまいましたが、宿場町を知れば、今の時代にいながら、江戸時代の風俗を知ることができるので興味深いです。

藤沢宿の全容

藤沢宿のスタートは遊行寺の坂にある「江戸見附

そのまま、大鋸橋(現遊行寺橋)を渡って、国道467号線~県道43号線を進むと小田急江ノ島線の線路の上を過ぎると、その付近に藤沢宿のゴール「京見附」がありました。

いまは見附跡になってますけどね・・・。
全長は約1340m(12町17間)。その間は、賑やかな通りで歩くのも楽しかったでしょうな。

藤沢宿案内板

いつも渋滞する(汗)藤沢橋の近くに、下記の案内板が設置されています。
藤沢宿の全体図を把握するのに便利です。

広くて走りやすい道路は、最近開発された道が多いので、昔からある旧東海道の路は細くて曲がりくねっていることが多々ありますね。

遊行寺橋・高札場跡

東海道の宿場町の絵で藤沢といったらこの遊行寺橋が有名です。
今は奇麗な赤い欄干の橋になってて、江の島へ向かう道にあった鳥居もありません。

高札場は、ふじさわ宿交流館横に建てられています。

藤沢広小路

ふじさわ宿交流館の前は、昔「藤沢広小路」と呼ばれていたようです。

江戸で広小路と言えば「両国広小路」が有名ですね。
明暦の大火で多くの人が亡くなったので、防災の観点からも作られたのが大きな火除地。

でも、火事が起こらないときは大きなスペースだったので、人や出店などが集まったみたいです。

日本三大広小路

広小路があったというか、藤沢広小路は、なんと日本三大広小路の一つだったようで。

・上野広小路
・名古屋広小路
・藤沢広小路(大鋸広小路)

ちなみに「江戸三大広小路」というのもあって、

・両国広小路
・上野広小路
・浅草広小路

だそうです。日本人は三大とかランキングが大好きですね。

江ノ島道・江ノ島弁財天道標

藤沢宿から江の島へ向かう道に設置してある石造りの道標。
道標は今も昔も変わりらずにありますね。

藤沢御殿跡

藤沢宿が整備される前に、徳川将軍家が京への上洛で藤沢に来た時に使っていた御殿跡。
東西約200m南北約100mの広大な敷地で、大きな堀りもあったようで、まさに防御施設。

今は、まったく面影が分からないのが残念です。
藤沢は都会ですから、昔の施設はどんどん壊されて新しいものに建て替えられていきますね。

藤沢御殿の堀跡

藤沢市民病院の近くに藤沢御殿の堀跡があったようで、その案内板が設置されています。
藤沢御殿の看板があった藤沢公民館からは、住宅も多く、結構な距離がありますよ。

問屋場跡

問屋場は、人馬の継立を行う場所。
ここで、次の宿場町まで人や馬が交代します。助郷役の割り当てなどもした宿場町の重要施設ですね。

蒔田本陣跡

宿場町に最低一つはあった本陣。武士や公家など身分の高い人が宿泊・休憩をした場所。
本陣に次ぐ施設として脇本陣もあります。

宿場町散歩では、まず本陣を探すと、江戸時代の立派な建物が見られるかと。

一里塚跡

藤沢宿の江戸見附のちょっと手前の旧東海道沿いに一里塚跡があります。

一里塚は主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもの」って書いてますね。
ここ遊行寺坂は江戸から12里目(約48km)の一里塚。

次の一里塚は城南一丁目の四ツ谷というところらしいです。暇が出来たら行ってみよう。

藤沢宿周辺の神社仏閣史跡等

永勝寺(飯盛女の墓)

「白旗」交差点の近くにある浄土真宗のお寺。
藤沢宿の飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵さんか、亡くなった飯盛女を供養したお墓。

本来、飯盛女は農村から両親の借金等で売られた人が多く、亡くなっても無縁仏となるのが殆どだった中、こうやって供養してもらえるだけで幸せだったんでしょうね。

こういう宿場町に興味を持ってしまったら、

・東海道53次のすべての宿場町に行きたい!
・他の中山道とかにも行きたい!

とかなりますけど、冷静に考えたら有名な2、3の宿場町に行けば、江戸風俗を知るには十分ですね。。。

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