藤原秀康|承久の乱での官軍大将軍、藤原秀郷と三浦一族の流れを汲む人物

藤原秀康|承久の乱での官軍大将軍、藤原秀郷と三浦一族の流れを汲む人物

藤原秀康(ふじわら の ひでやす)

生誕不詳-1221
承久の乱において、後鳥羽上皇側(官軍)の大将軍。藤原北家秀郷流。

院に仕える武士の一族で、後鳥羽上皇の倒幕計画に参与し、三浦胤義三浦義村の弟)を説得し味方に引き入れた。

一宮市にある説明板

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、藤原秀康役を星智也さんが演じられています。

藤原秀康の簡易年表

時期年齢出来事
生年不詳0誕生(父は藤原秀宗)
承久3(1221)年承久の乱で幕府軍に敗北後に逃走
河内国で捕らえられ京で斬られた

吾妻鏡より

北条政子の演説で名指し

北条政子が御家人を集めて安達景盛を介して行った有名な演説の一部分です。
官軍の中心人物として藤原秀康、三浦胤義の名前が挙がっています。

承久3(1221)年 5月19日

「・・・逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむものは、速やかに藤原秀康、三浦胤義らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺跡を守るように」

弟、藤原秀澄からの飛脚

まさか京へ攻め込んでくるとは思っていない官軍は、秀澄からの思わぬ飛脚の伝言に慌てるしかなかったようです。

同年 5月26日

夕方、藤原秀澄が美濃国から京都に飛脚を進めて申した。
「関東の武士が官軍を破るために、間もなく上洛しようとしている。その軍勢は大軍で、仏神のご加護がなければこの天災をしりぞけることはできないでしょう。」
これを聞き、院中はようやく慌てふためいた。

官軍の派遣と合戦

京に向かってくる大軍の鎌倉幕府軍を防ごうと官軍を三方面に分けて派遣しますが、数に劣る官軍は敗戦。藤原秀康はじめ、官軍は京へ逃げ帰ることになります。

同年 6月3日

関東の大将軍(北条泰時)が遠江国府に到着したと伝える飛脚が京都に到着、公卿会議行われ防戦の為官軍を処方に派遣した。
北陸道に・・・、東山道に・・・、摩免戸(各務原市付近)に藤原秀康(能登守)、三浦胤義ら

同年 6月5日

東山道で合戦、官軍で東山道の大将軍「大内惟信」は逃亡、それを聞き、藤原秀康、三浦胤義以下は、警護していた場所を放棄して京へ戻った。

同年 6月7日

寅の刻(午前4時)、藤原秀康らが負傷しつつ京に帰ってきた。
「去る6日に摩免戸で合戦し、官軍は敗北しました」と後鳥羽上皇に奏聞した。

奈良に隠れていた藤原秀康の確保

奈良に隠れていた藤原秀康。
奈良は以前、平家に大伽藍を焼き滅ぼされて衆徒(しゅと|僧侶)は武士に敵対心を抱いています。

その事が、ちょっとした問題に。

承久3(1221)年10月12日

六波羅の飛脚が鎌倉に到着した
「先月25日、承久の乱の首謀者である藤原秀康(能登守)、秀澄が奈良に隠れているとの噂があったので、北条時房の計画で家人らに捜索させたところ、両人が逃走しました。

そんな中、衆徒らが蜂起し、夜討人と称し時房の使者を取り囲み、合戦、無勢の使者は全員殺されてしまいました。

そのため、北条時房泰時は相談の上、在京武士ら数千を動員して南都へ。
驚いた衆徒は「悪党らを捜索し、捕らえて差し出します」と。それを認めて武士らは京へ戻ります。

今月2日に、南都から秀康の後見を捕らえて差し出し、処置を考えています。」

同年 10月16日

六波羅の飛脚が鎌倉へ到着
「去る6日、河内国で藤原秀康、秀澄らを捕らえました。後見の自白によるものです」
身柄は、同月8日、六波羅に到着しています。

藤原秀康の系図

下記の系図は説の一つですが、藤原秀康は父方に藤原秀郷(平将門を討伐した人物)、母方に源頼光(酒呑童子を退治した人物)と三浦一族の血を引いています。

官軍に引き入れた三浦胤義、官軍に誘った(失敗した)三浦義村、とのつながりを見るととっても面白いですね。血の流れを重んじる胤義、生き残る為なら裏切も辞さない義村。

承久の乱を理解するには、下記系図や秀康の兄弟も抑えておくとよさそうです。

源頼光   藤原秀郷        三浦義明
 :     :           ┣-----------┓
源光基   藤原秀忠        杉本義宗        三浦義澄
 |     |      ┏----┻----┓      ┣------┓    
 |     女=====和田宗実      和田義盛   三浦義村   三浦胤義
 |        |
 女======藤原秀宗
  ┏--┻--┳---┓
 藤原秀康  秀能    秀澄
 [大将軍]   [大将]  [大将]

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

藤原秀康ゆかりの地

高陽院(かやのいん)

承久の乱が行われた、承久三(1221)年当時、高陽院は後鳥羽上皇の御所で、藤原秀康の館はその高陽院の北にあったと言われています。

摩免戸(まめど)

承久3(1221)年6月5~7日 承久の乱で官軍の大将軍だった「藤原秀康」は、木曽川の摩免戸に1万騎を率いて、北条泰時軍と対峙しましたが、敗走しました。

下記写真は摩免戸(現、前渡)付近を愛岐大橋から撮ったものです。

木曽川(左が幕府軍、右が官軍)

すいとぴあ江南

摩免戸付近の愛知県側にある「すいとぴあ江南」という施設。
最上階が展望台になっていて、350円で入ることができ、木曽川を上から眺めることが出来ておススメ。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時・泰時父子を演じた「小栗旬と坂口健太郎」も、訪問し木曽川を眺めた場所です。

瀬田の唐橋

承久3(1221)年6月13日 承久の乱での一戦、瀬田の戦い。
藤原秀郷、三浦胤義は官軍として鎌倉幕府軍と戦い善戦するも、最後は敗走しました。

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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