藤原頼経(三寅)|初の摂家将軍、2歳で下向した鎌倉幕府第4代征夷大将軍

藤原頼経(三寅)|初の摂家将軍、2歳で下向した鎌倉幕府第4代征夷大将軍

2022-02-20

藤原頼経(ふじわらのよりつね)

1218-1256。摂関家、藤原(九条)道家の三男。幼名は三寅。九条頼経とも。

第3代将軍「源実朝」が甥の公暁に暗殺されたため、後鳥羽上皇に皇族を将軍に迎えようとしたが拒否され、遠縁ながら血縁関係がある頼経が鎌倉に迎え入れられた。

幼名の三寅(みとら)は、生まれたのが、寅年・寅月・寅刻だったことから。

藤原頼経の簡易年表

時期年齢出来事
建保6(1218)年0才生誕(父:九条道家)
1220年2才鎌倉に迎えられる
嘉禄2(1226)年8才元服後し「頼経」と名乗り、征夷大将軍宣下
文暦2(1235)年17才飯盛山 明王院を建立
※この間、北条朝時(ともとき|名越流)を筆頭とした反得宗、
 半執権政治派と関係を深める。
1244年26才征夷大将軍を辞職させられるも「大殿」として留まる。
次将軍は嫡男「頼嗣」。
1245年27才鎌倉で出家。行賀(ぎょうが)と名乗る
1246年28才執権北条時頼によって、京都へ送還(宮騒動)
※帰洛の際に、北条氏一族の佐介時盛の邸宅を経由
1247年29才鎌倉への帰還を計る(宝治合戦)
1256年39才赤痢のため京都で死去

三寅(頼経)の近習番

九条頼経が5才頃に頼経の側近が選抜されました。

貞応2(1223)年10月13日

北条重時を奉行として、若君(三寅)の身近に祗候する人を決められた。
1番 北条重時 結城朝広 三浦光村
2番 北条政村 伊賀朝行 宇佐美兵衛尉
以下、6番まで

頼経の将軍宣下

三寅は元服を済ませた後、スムーズに鎌倉幕府の将軍となった。
この流れが、5代将軍の時に前例として踏襲されて、力を持つ前に将軍を辞めさせられることに。

嘉禄2(1226)年 2月13日

佐々木信綱が京都から除書を持参して鎌倉に帰参した。
正月27日に将軍宣下があり、同時に右近衛少将に任じられ、正五位下に叙された。

なお、元服は前年の嘉禄元(1225)年12月29日に行われている。(吾妻鏡)

五大堂(現明王院)供養

九条頼経は鎌倉の十二所にある「明王院」を創建します。

文暦2(1235)年 6月29日

午前8時頃、鐘を鐘楼に懸け、五大明王像(不動、降三世、軍茶利、大威徳・金剛夜叉)を堂の中に安置した。藤原頼経が堂に向かうため出かけられた。南門を出て、小町大路を北に、塔辻を東に進んだ。

両国司(北条時房、北条泰時)はすでに堂に居て、頼経が入って来ると供養の儀が始まった。
18時頃に儀式は終わり頼経は帰った。(吾妻鏡)

第一の側近「三浦光村」

摂家将軍といえども、鎌倉に2才から居ると知り合いも沢山できます。

その中でも、三浦泰村(三浦一族の惣領)の弟である「三浦光村(1205-1247|頼経の13才年上)」は、20年来側近として仕えました。

頼経の京都への帰路にも付き従い、別れの時は「もう一度鎌倉へお迎えしたい」と涙を流したとか・・・。
それを執権北条側は、「三浦一族に謀反の兆し有り」とみなしたかどうか、昔なので分かりませんが、宝治合戦に繋がります。

藤原頼経周辺の系図

藤原(九条)頼経は、源頼朝の妹の血を引いています。
九条頼経の曽祖父「藤原兼実(九条兼実)」は親幕派公卿。

              源義朝
             ┏-┻-┓
九条兼実  一条能保===女   源頼朝=====北条政子
  |        |        ┏-┻-┓
  良経=======女       頼家  実朝   
      |             |
     道家             |
      |     ┏---┳---┫     
    九条頼経===竹御所  公暁  一幡
      |
     頼嗣

※系図の表示が崩れる場合は、「画面を横向き」にしてご覧ください。

九条頼経(1218年生まれ)の妻、竹御所(1202年生まれ)は、16才も年上の姉さん女房。
寛喜2(1230)年に結婚(しかも密儀)したので、頼経13才、竹御所28才でした。

九条頼経と竹御所の結婚

寛喜2(1230)年 12月9日

将軍家(藤原頼経)の結婚について、内々に審議が行われた。日程について討論したのち、本日と決められた。
午後10時頃、竹御所が御所に入った。これが結婚の儀式で、突然行われ、密儀で晴儀ではなかった。

供奉人は、北条朝時、北条政村、北条有時、二階堂行義、佐原景連、結城智光、佐々木信朝ら。
北条泰時北条時房は御輿寄(神輿乗り降り場)に祗候(奉仕)された。

4年後に懐妊したものの、難産で男児を死産、本人も亡くなり、源氏将軍の血筋が断絶してしまいました。

竹御所、男児出産後に死去

天福2(1234)年 7月27日

寅の刻(午前4時頃)に竹御所が出産したものの子供は死んで生まれてきた。
出産の後に苦しみ、辰の刻(午前8時頃)に亡くなられた。享年32才。(吾妻鏡)

藤原頼経ゆかりの地

宇津宮辻幕府

北条政子が亡くなり、心機一転、幕府の場所を大蔵の地から移した場所。宇津宮辻幕府
4代将軍「藤原頼経」がココに移り約12年間住みました。

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飯盛山 明王院

三浦光村は藤原頼経が建立した明王院を尊重し、北条氏から、反北条氏として目を付けられたらしいです。

※明王院は境内の写真撮影は禁止です。

明王院|毎年1月28日の「護摩焚き法要(初不動)」の流れ、タイムスケジュールなど
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