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藤原頼経(ふじわらのよりつね)
1218-1256。摂関家、藤原(九条)道家の三男。幼名は三寅。九条頼経とも。
第3代将軍「源実朝」が甥の公暁に暗殺されたため、後鳥羽上皇に皇族を将軍に迎えようとしたが拒否され、遠縁ながら血縁関係がある頼経が鎌倉に迎え入れられた。
幼名の三寅(みとら)は、生まれたのが、寅年・寅月・寅刻だったことから。
藤原頼経の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
建保6(1218)年 | 0才 | 生誕(父:九条道家) |
1220年 | 2才 | 鎌倉に迎えられる |
嘉禄2(1226)年 | 8才 | 元服後し「頼経」と名乗り、征夷大将軍宣下 |
文暦2(1235)年 | 17才 | 飯盛山 明王院を建立 |
※この間、北条朝時(ともとき|名越流)を筆頭とした反得宗、 半執権政治派と関係を深める。 | ||
1244年 | 26才 | 征夷大将軍を辞職させられるも「大殿」として留まる。 次将軍は嫡男「頼嗣」。 |
1245年 | 27才 | 鎌倉で出家。行賀(ぎょうが)と名乗る |
1246年 | 28才 | 執権北条時頼によって、京都へ送還(宮騒動) ※帰洛の際に、北条氏一族の佐介時盛の邸宅を経由 |
1247年 | 29才 | 鎌倉への帰還を計る(宝治合戦) |
1256年 | 39才 | 赤痢のため京都で死去 |
三寅(頼経)の近習番
九条頼経が5才頃に頼経の側近が選抜されました。
貞応2(1223)年10月13日
北条重時を奉行として、若君(三寅)の身近に祗候する人を決められた。
1番 北条重時 結城朝広 三浦光村
2番 北条政村 伊賀朝行 宇佐美兵衛尉
以下、6番まで
頼経の将軍宣下
三寅は元服を済ませた後、スムーズに鎌倉幕府の将軍となった。
この流れが、5代将軍の時に前例として踏襲されて、力を持つ前に将軍を辞めさせられることに。
嘉禄2(1226)年 2月13日
佐々木信綱が京都から除書を持参して鎌倉に帰参した。
正月27日に将軍宣下があり、同時に右近衛少将に任じられ、正五位下に叙された。
なお、元服は前年の嘉禄元(1225)年12月29日に行われている。(吾妻鏡)
五大堂(現明王院)供養
九条頼経は鎌倉の十二所にある「明王院」を創建します。
文暦2(1235)年 6月29日
午前8時頃、鐘を鐘楼に懸け、五大明王像(不動、降三世、軍茶利、大威徳・金剛夜叉)を堂の中に安置した。藤原頼経が堂に向かうため出かけられた。南門を出て、小町大路を北に、塔辻を東に進んだ。
両国司(北条時房、北条泰時)はすでに堂に居て、頼経が入って来ると供養の儀が始まった。
18時頃に儀式は終わり頼経は帰った。(吾妻鏡)
第一の側近「三浦光村」
摂家将軍といえども、鎌倉に2才から居ると知り合いも沢山できます。
その中でも、三浦泰村(三浦一族の惣領)の弟である「三浦光村(1205-1247|頼経の13才年上)」は、20年来側近として仕えました。
頼経の京都への帰路にも付き従い、別れの時は「もう一度鎌倉へお迎えしたい」と涙を流したとか・・・。
それを執権北条側は、「三浦一族に謀反の兆し有り」とみなしたかどうか、昔なので分かりませんが、宝治合戦に繋がります。
藤原頼経周辺の系図
藤原(九条)頼経は、源頼朝の妹の血を引いています。
九条頼経の曽祖父「藤原兼実(九条兼実)」は親幕派公卿。
源義朝
┏-┻-┓
九条兼実 一条能保===女 源頼朝=====北条政子
| | ┏-┻-┓
良経=======女 頼家 実朝
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道家 |
| ┏---┳---┫
九条頼経===竹御所 公暁 一幡
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頼嗣
※系図の表示が崩れる場合は、「画面を横向き」にしてご覧ください。
九条頼経(1218年生まれ)の妻、竹御所(1202年生まれ)は、16才も年上の姉さん女房。
寛喜2(1230)年に結婚(しかも密儀)したので、頼経13才、竹御所28才でした。
九条頼経と竹御所の結婚
寛喜2(1230)年 12月9日
将軍家(藤原頼経)の結婚について、内々に審議が行われた。日程について討論したのち、本日と決められた。
午後10時頃、竹御所が御所に入った。これが結婚の儀式で、突然行われ、密儀で晴儀ではなかった。
供奉人は、北条朝時、北条政村、北条有時、二階堂行義、佐原景連、結城智光、佐々木信朝ら。
北条泰時、北条時房は御輿寄(神輿乗り降り場)に祗候(奉仕)された。
4年後に懐妊したものの、難産で男児を死産、本人も亡くなり、源氏将軍の血筋が断絶してしまいました。
竹御所、男児出産後に死去
天福2(1234)年 7月27日
寅の刻(午前4時頃)に竹御所が出産したものの子供は死んで生まれてきた。
出産の後に苦しみ、辰の刻(午前8時頃)に亡くなられた。享年32才。(吾妻鏡)
藤原頼経ゆかりの地
宇津宮辻幕府
北条政子が亡くなり、心機一転、幕府の場所を大蔵の地から移した場所。宇津宮辻幕府。
4代将軍「藤原頼経」がココに移り約12年間住みました。
飯盛山 明王院
三浦光村は藤原頼経が建立した明王院を尊重し、北条氏から、反北条氏として目を付けられたらしいです。


※明王院は境内の写真撮影は禁止です。