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一ノ谷の戦い
寿永3(1184)年の2月。
木曽義仲を討伐した、源範頼・義経軍は京を経由して、西海・山陰の軍数万騎を従え勢いを盛り返していた平家が軍を構えていた一ノ谷に向かった。
2月7日の卯の刻(AM6:00)を持って矢合わせの時と決定した。
寿永3年2月7日 一ノ谷の戦い
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 23, 2021
義経軍の鵯越の逆落とし
熊谷直実と平敦盛の一騎打ち
雪の降ってる寒い時の戦いやったんですね☃️#一ノ谷 #源平史跡 #須磨浦公園 pic.twitter.com/FJ2O64sn4u
合戦の経過
時期 | 日付 | 出来事 |
---|---|---|
寿永3(1184)年 | 2月4日 | 源範頼、源義経が京を出発して摂津へ |
2月5日 | 摂津国三草山に源平ともに布陣。 源氏軍(義経軍)の襲撃に平家軍が敗走 | |
2月7日 夜明け | 塩屋口で熊谷直実が先陣として名乗り、のちに土居実平軍が合流 | |
2月7日 6:00 | 生田口で、梶原景時・畠山重忠以下大手軍(範頼軍)が布陣 | |
2月7日 | 義経の逆落とし、佐原義連が真っ先に駆け下る | |
2月7日 | 平家軍が敗走。多くの平家一門が討ち取られる。 平敦盛が熊谷次郎直実に首を討たれる | |
2月8日 | 源範頼、義経は摂津国から戦況の報告の飛脚を京都へ遣わす | |
2月15日 | 源範頼、義経らの飛脚が摂津国から鎌倉に到着 |
大手軍(大将:源範頼)
源範頼(35)率いる大手軍(56,000騎)は、生田口から攻撃。主な従う人々は下記の通り
小山朝政(30)、武田有義(?)、下河辺行平(?)、長沼宗政(23)、千葉常胤(67)、畠山重忠(21)、稲毛重成(?)、梶原景時(45)、梶原景季(23)、相馬師常(46)、千葉胤頼(30)、曽我祐信(?)等
搦手軍(大将:源義経)
源義経(26)率いる搦手軍(20,000騎)は、三草山を経由して塩屋口方面から攻撃。主な従う人々は下記の通り
遠江守義定(51)、藤原親能(42)、田代信綱(?)、土肥実平(?)、三浦義連(?)、熊谷直実(44)、熊谷直家(16)、平山季重(45?)等
三草山の戦い(2月5日)
源氏軍が摂津国に到着した事を聞き、平家軍は平資盛(清盛嫡男「重盛」の次男)、平有盛 (清盛嫡男「重盛」の4男) を始めとする7,000騎が三草山の西に到着。
源氏軍は三草山の東に到着。
源義経は、田代信綱、土肥実平と評定を行い夜明けを待たずに夜半頃に平資盛を襲撃。
平家軍は慌てて散り散りになって逃走した。
一ノ谷の戦い(2月7日)
雪が降る寅の刻(午前4時)
義経は、特に勇敢な武士70騎を選んで引き連れて、一ノ谷の後ろの山(鵯越)に到着。
卯の刻(午前6時)
熊谷直実、平山季重らは密かに一ノ谷の前の道を通り、海側の道から平家の館に「源氏の先陣である!」と名乗りを上げながら競って襲い掛かったので、悪七兵衛尉景清ら平家軍も木戸口を開いて合戦に。
熊谷直家は負傷、平山季重の郎従は若くして討ち死に。
劣勢の時、源範頼軍(足利・秩父・三浦等)が競って襲来し源平の軍士たちは入り乱れて戦う。
義経が三浦義連以下の有志を率いて鵯越から攻撃。
想定外の攻撃に平氏軍はあわてふためき敗走。一ノ谷の館を脱出し、四国の地へ逃げるもの多数。
捕まった平家軍
平重衡(28?)(清盛の5男) 明石において梶原景時らに生け捕り
平通盛(教盛(清盛弟)の嫡男) 湊川の近辺で誅殺
平忠度、平経俊、平知章、平敦盛、平業盛、平盛俊 範頼・義経らの軍勢により討ち取られる
平家物語「敦盛最後」で有名な場面、熊谷直実と平敦盛の話は吾妻鏡には載っていません。
一ノ谷の戦いマップ
生田神社(平家軍大手木戸口)
生田神社の境内奥にある「生田の森」
ここは平家軍が大手の木戸口とし、平知盛(清盛4男)将軍・重衡(清盛5男)副将軍が陣取って防備を固めていた場所。
対する鎌倉軍は、源範頼の軍勢(大手軍)が攻め入りました。
場所としては、一ノ谷古戦場の東側(生田口)にあたります。
生田の森
平家軍がこの生田の森を東の城戸として、生田川に逆茂木を並べて陣を張り、源氏の源範頼軍を迎え撃った場です。
箙の梅(えびらのうめ)
生田神社の楼門の左側に咲いている梅の木。
梶原源太景季が境内に咲き誇った梅の一枝を箙(えびら)に挿して戦った事が、武士の風流として語り継がれました。謡曲「箙」。
※箙(えびら)狩場や戦場で腰に負う矢入れ具の一種
梶原の井
生田神社の楼門の右側にある井戸。井戸には覆いがされています。
梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったとか、井戸の水を掬ったときに咲き盛った箙の梅の花影が映ったとか。
敦盛の萩

須磨寺(源氏搦手軍陣地)
源平一ノ谷合戦が行われた時、須磨寺は源氏の大将「源義経」の陣地だったと伝えられています。
源平の庭
当時16歳の無官大夫平敦盛(清盛の弟・経盛の末子)と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭。
敦盛首洗いの池
熊谷直実が、対象の源義経に平敦盛の首を見せるために、首を洗ったといわれる池。

義経腰掛の松
一ノ谷の合戦の後、源義経はこの松に腰を掛けて、平敦盛の首を確かめたといわれている。
この腰掛の松のすぐ下が首洗いの池なので、首を洗っているところから見ていたかもしれません。

敦盛墓所(首塚)
境内の奥側にある敦盛の首塚。
熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩提を弔うために建立されました。
こちらは首塚。胴塚は須磨浦公園の「敦盛塚」に祀られています(下記参照)
平重衡とらわれの松跡(須磨寺外)
山陽「須磨寺」駅を出てすぐの場所にある松。
寿永3年2月7日、生田の森(上記)から須磨まで逃れてきた副将軍「平重衡」だったが、源氏の捕虜となってしまい、土地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ、喜んで一首詠んだと。
その後、鎌倉に送られて処刑された。
一ノ谷(搦手側合戦場)
戦の浜碑
一の谷から西一体の海岸は「戦の濱」と言われています。
毎年2月7日の夜明けには、軍馬のいななく声が聞こえるとか・・・。
敦盛塚
全国で2位の規模を誇る中世の五輪塔。
一の谷の戦いで、源氏の武将「熊谷直実」に討たれた、若干16歳の「平敦盛」の供養塔。
または、鎌倉幕府9代執権「北条貞時」が平家一門を供養するために弘安9(1286)年に建立した「あつめ塚」が「あつもり塚」と呼ばれるようになったと。
安徳帝内裏跡伝説地
平清盛の娘、建礼門院徳子を母(父は高倉天皇)として生まれ2歳で即位した幼帝。
安徳帝が西下の途中、一の谷に一時内裏を置いたと言い伝えがある場所。須磨浦公園から急な階段(坂道)を登った場所にある。
伝内裏の場所には安徳宮がある。