目次
岩瀬与一太郎義正(いわせ よしまさ)
生没年不詳
陸奥国奥七群を支配していた佐竹隆義の嫡男「佐竹義政(弟に佐竹秀義)」の近習。
陸奥国大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬 or 茨城県桜川市岩瀬)の岩瀬城城主。
頼朝に諫言し、武勇を認められて御家人となり、鎌倉市岩瀬に居を構えたと伝わります。
岩瀬与一太郎の簡易年表
治承4(1180)年10月富士川の戦いで平家を破った源氏軍は、そのまま上京しようとしたが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らに諫められ、一旦相模国に戻り関東の足元を盤石にするため、常陸国の佐竹氏討伐を決定した。
年代 | 日付 | 出来事 |
---|---|---|
治承4(1180)年 | 10月27日 | 頼朝軍、佐竹冠者秀義を追討するために常陸国に向けて出発 |
11月4日 | 頼朝軍、常陸国府(現、茨城県石岡市)に到着 | |
主人の佐竹義政が上総広常の誘いに乗り、誅殺される | ||
11月8日 | 岩瀬与一太郎らが生け捕られ庭中に召し出され、頼朝の質問に対し諫言。 罪を許し、御家人に加えた。 |
吾妻鏡では、岩瀬与一太郎という名前で登場しています。
岩瀬与一太郎の諫言
岩瀬与一太郎を許し御家人に加えた頼朝に対してのやりとりについて、吾妻鏡は下記のように記述しています。
治承4年11月8日
捕らえられた佐竹の家人の中にしきりに顔を伏せて泣いている男がいたので、頼朝が理由を聞いた。
岩瀬与一太郎「亡くなった佐竹の事を思うと、生きていてもどうしようもありません」
源頼朝「ならば、なぜ佐竹が誅殺されるときに、自ら命を絶たなかったのか?」
岩瀬与一太郎「主人が殺されたとき、家人は橋の上に行かず、主人一人が橋の上に呼び出され誅された。後日の事を思って逃亡した。今ここに居るのは言いたいことがあるからです」
源頼朝「申してみよ」
岩瀬与一太郎「平家を追討する計画をさしおいて、一族(源家)である佐竹を滅ぼすとは全くあってはならぬこと。平家に対しては源家等が一揆して力を合わせるべき。なのにこのような過ちのない一門を殺されては、みな恐れをなすだけ、心から服従する志を持つ事などできません。よくよくお考え下さい」
それ以上、頼朝は話すことをせず、罪を許し、御家人に加えたと。
岩瀬与一は主人「佐竹義政」の殺され方についても頼朝(34)に反論しています。
その4日前の治承4年11月4日
常陸国府に到着した頼朝軍は、千葉常胤(63)・上総広常(?)・三浦義澄(54)・土肥実平(?)以下の宿老たちと計略を練り、佐竹氏の縁者と言うことで上総広常を遣わした。
佐竹冠者秀義は考えるところがありすぐに参上できないと言い金砂城に引きこもり、佐竹太郎義政はすぐに参上するということで大谷橋の辺りにやってきた。
頼朝が義政の家人らを外に退け、義政一人を橋の中央に招くと、広常が誅殺。
あっと言う間の出来事で、したがっていた家人はある者は降伏し、ある者は逃亡した。
主人 佐竹義政(常陸佐竹氏嫡男)
岩瀬与一太郎は佐竹義政の近習。
弟に佐竹秀義がいて、秀吉は上総広常の誘いを断り金砂城に籠り、頼朝軍と戦い敗北しました。
岩瀬与一太郎ゆかりの地
鎌倉市岩瀬
頼朝の御家人になった岩瀬与一太郎が屋敷を作り、この一帯を治めたことが岩瀬の地名の起こりと言われています。
五社稲荷神社(鎌倉市岩瀬)
相模風土記によると、建久年間(1190~1198)に岩瀬与一太郎義正が鎌倉市岩瀬に居住していた時、五穀豊穣と安寧を願って創建したとあります。
五社稲荷神社は「御所明神」「五所の宮」とも言い、食物の神5柱を祀っています。


木舟大明神(鎌倉市岩瀬)
説明板等もなく、詳しいことは分かりませんが、鎌倉市岩瀬の山の中にある木舟大明神(祠)は、岩瀬与一太郎をまつったものだと伝わっています。

