梶原景季|歌道にも優れ、源頼朝の家子に選ばれ信頼された梶原景時の嫡男

梶原景季|歌道にも優れ、源頼朝の家子に選ばれ信頼された梶原景時の嫡男

2021-07-30

梶原源太景季(かじわら かげすえ)

1162-1200。頼朝の臣従、家子

今回は、梶原景時の嫡男、景季について調べてみることにしました。

大河ドラマでの梶原景季役

タッキーこと滝沢秀明主演の大河ドラマ「義経」
この中で、梶原景季は小栗旬梶原景時は中尾彬が演じています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、柾木 玲弥さんが演じられます

梶原景季の簡易年表

義経(1159生)と景季(1162生)は、年齢が近いこともあってお互いに信頼しあう間柄として描かれています。

年代年齢出来事
応保2(1162)年0誕生
養和元(1181)年20頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる
寿永3(1184)年23源義仲討伐の為、源範頼と義経軍に父・景時と従う
 佐々木高綱と宇治川の先陣争い
一ノ谷の合戦に参加
 景時・景季・景高父子は源範頼の大手軍
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参加
 父・景時と共に義経軍に属する(平家物語)
文治元(1185)年24頼朝が激怒した無断任官事件(景季・景高兄弟)
頼朝の命により上洛
 義経に叔父「源行家」を追討するよう伝える
文治5(1189)年28奥州藤原氏討伐へ、一族とともに参加
文治6(1190)年29頼朝の上洛に供奉
正治元(1199)年38梶原景時の変で、御家人の弾劾を受け、所領の相模国一ノ宮へ
正治2(1200)年 39上洛を企てるも、駿河国清見関で在地武士と戦い、自害。享年39

養和元(1181)年 8月11日

その晩、御台所(政子)にお産の気配があった。
頼朝は、御祈祷の為に奉幣の御使を近国の神社へ遣わしたが、その中に弟「景高」もいた。

相模一宮(現、寒川神社) 梶原平次(景高)

このような吾妻鏡の記述からも、梶原氏は寒川方面にゆかりが有ったことが分かりますね。

梶原一族の系図

梶原氏は、平良文の流れを汲む一族です。
代々遡っていくと、三浦一族、大庭氏、長尾氏が遠い繋がりが有ることが分かりますね。

鎌倉氏ということもあって「景」の文字が「通名(とおりじ)」です。
これで判断すると、大庭氏、長尾氏、俣野氏、梶原氏は同じ一族。

1180年の頼朝挙兵時に当初は平家方として、頼朝と敵対していたことも納得です。

村岡良文
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 ├---------┐
鎌倉章名       三浦為通
 ├---------┬----------------┬
 景成        景村                景通
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           景明                梶原景久 ← 梶原氏の祖
           ├----------┐     |
          大庭景宗       長尾景弘   梶原景長 
           ├---┐      ├     |
          懐島景義 大庭景親  長尾定景   梶原景清(?) 
                            |
                            梶原景時(1140?)
                            ├
                            梶原景季(1162)

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

梶原景季周辺の系図

梶原氏は、父・梶原景時の時に大いに発展しますが、頼朝の死後、梶原景時の変で御家人たちから弾劾されて、一族の多くは滅びてしまいました。

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梶原景清(?) 
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梶原景時(1140?)                        朝景
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梶原景季(1162)   景高(1165)    景茂(1167)          景貞
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景望

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

ただし、梶原景時の次男「景高」の子孫は生き残り、後に「足利氏」に仕えてたり、他にも各地に一族末裔がいるようです。

無断任官事件

平家を滅ぼした後、源頼朝は自分の推挙を受けることなく多くの関東御家人たちが都で勝手に任官したのに激怒し、任官した各々に悪口ととともに鎌倉へ戻ってくることを禁止した。

梶原朝景(景時弟)には、声はしわがれ、後頭部の頭髪も刑部丞の柄ではない。
梶原景高(景季弟)には、悪い心構えの者で、前から愚か者だと思っていたが、任官するとはまことに見苦しい。

しかし無断任官の中には、梶原景季もいたが、彼には特に悪口は無かったようで、特別扱いされてたようです。

名馬「磨墨(するすみ)」

源頼朝から拝領し、宇治川の先陣争いで梶原景季が乗った名馬が磨墨

名馬「磨墨」|源頼朝から拝領した梶原景季が宇治川の合戦を戦った名馬
磨墨(するすみ) 名馬「磨墨」は、ライバル馬「池月」と共に、木曽義仲の討伐戦の宇治川の戦いで、先陣を競い合った名馬です。(宇治川先陣物語)。騎乗は梶原景季。 元…
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梶原氏ゆかりの地

鎌倉市梶原は、梶原氏発祥の地と考えられています。
平安時代、鎌倉(権太夫)景通がココに住んで、子孫が梶原氏を名乗ったと言われています。

梶原一族についてのゆかりの地については、景季の父「景時」のページに纏めていますので参照ください。

梶原景時|都の貴族にも一目置かれた頼朝の寵臣、讒言者で有名
梶原(平三)景時(かじわら かげとき) 1140?-1200。侍所所司。平家軍に属しながら石橋山の戦いで頼朝と見逃し、後に頼朝の寵臣へとなる。 梶原景時の通称「…
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源太塚

仏行寺の裏山の墓地の一番高い所にある源太塚。
梶原源太景季の左腕が埋めてあると伝えられています。

しのぶ塚

しのぶ塚の「しのぶ(信夫」は、梶原源太景季の妻とされる人物。
夫の景季が、駿河で戦死したときに、たいそう悲しみ、源太塚がある山に登って自害しました。

その後、毎夜のようにしのぶの夫を慕う悲しみの声が聞こえてくるということで、村人が霊を慰めるために自害した場所に「しのぶ塚」を建てました。

現在は宅地造成などの関係で、場所を変え、鎌倉山の「若松」バス停付近の公園に移設されています。

梶原景季顕彰碑(寒川町一之宮)

梶原景時館跡の近くにある、伝梶原氏一族郎党の墓と同じ場所に景季の顕彰碑が建っています。

景季の事を、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取と褒めたたえ、宇治川の合戦でも佐々木高綱との先陣争いのことも書いています。

宇治川(宇治川の先陣争い)

木曽義仲の追討戦で、宇治川と対峙した源義経軍。
冷たく流れの早い宇治川を馬で渡り、佐々木高綱と先陣争いした場所。

木曽義仲の追討|宇治川の戦い、粟津の戦いで敗北した朝日将軍
木曽義仲追討(治承・寿永の乱|源平合戦) 京都から平家を追い払い、源氏の中で京へ一番乗りを果たした木曽義仲軍。 しかし木曽の兵が町の人にいろいろ乱暴し、今日のし…
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生田神社(箙の梅)

一ノ谷の戦いのとき、大手軍に属し生田の森で平家軍を戦っていた梶原景季は、生田神社の境内に咲いていた梅を箙に挿して戦ったという。

一ノ谷の戦い|源義経大活躍!平家一門が大打撃を受けた、摂津国福原・須磨での戦い
一ノ谷の戦い 寿永3(1184)年の2月。 木曽義仲を討伐した、源範頼・義経軍は京を経由して、西海・山陰の軍数万騎を従え勢いを盛り返していた平家が軍を構えていた…
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梶原山山頂(静岡県)

梶原景時の変で鎌倉を追われた梶原一族が駿河国の地で、鎌倉方の息がかかった在地武士等に攻められて、自害した場所。

梶原景時最期の地(静岡県)|清見関から梶原山山頂での自害までの史跡巡り
梶原一族の最期、駿河国にて 梶原一族いくさの跡 説明板 光鏡院(静岡市葵区瀬名1-38-36|梶原山山頂への坂道に入る手前にある寺院)の山門横にある説明板。 梶…
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