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加藤景廉(かとう かげかど)
1156?-1221
藤原北家流の流れを汲む加藤景員の次男。別名は藤次郎。加藤次(吾妻鏡の表記に多い)など。
伊勢国を本拠とする伊勢加藤氏。
平氏との争いで伊豆国に下り、工藤氏(狩野氏)らの協力を得て土着勢力になった。
加藤氏初代の「藤原景道」が加賀介に任じられ、加賀の藤原を略して「加藤」と称するようになったと。
加藤景廉の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
保元元(1156)年 | 0 | 誕生(諸説あり) |
嘉応2(1170)年 | 15 | 源為朝征伐に従軍し、為朝の首をはねる戦功をあげる |
治承4(1180)年 | 25 | 頼朝の挙兵に当初から従軍 平氏目代「山木兼隆」を討ち取る |
石橋山の戦いの敗戦後は、甲斐国へ逃れる | ||
元暦元(1184)年 | 29 | 平家追討に従軍 源範頼軍に付いて、瀬戸内海で平家を討つ |
文治5(1189)年 | 34 | 奥州征伐に従軍 |
建久4(1193)年 | 38 | 頼朝の命で安田義資を誅殺 |
正治2(1200)年 | 45 | 梶原景時の変 梶原景時の朋友として連座し所有の一部を没収される |
建仁3(1203)年 | 48 | 比企能員の変 比企能員を誅殺した仁田忠常を誅殺 |
建暦3(1213)年 | 58 | 和田合戦では幕府方に付いて働く |
健保7(1219)年 | 64 | 鎌倉幕府の評定衆に 実朝が公暁に暗殺され、責任を感じ出家「覚蓮坊妙法」と改名 |
承久3(1221)年 | 66 | 所領の牧之郷に戻り、8月3日に死亡 |
吾妻鏡より
山木兼隆を討ち取る
治承4(1180)年 8月17日
頼朝は軍勢を送り出した後、なかなか煙が見えなかったので、警固させていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを呼び、すぐに山木へ行き合戦に加わるようにと、長刀を景廉に渡し、兼隆の首を取ってくるようにとよくよく命じた。厳命通りに館に討ち入り、山木兼隆の首を取った。
宴会で気を失う(二日酔い?)
寿永元(1182)年 6月7日
源頼朝は、由比ヶ浜での牛追物の後、盃酌の儀があり宴会で時を過ごしていたが、晩になり加藤景廉が座で気を失った。騒然となったが、佐々木盛綱が大幕で包み抱えて退去し宿所で治療した。
翌 6月8日
頼朝は加藤景廉の家へお見舞いに行った。景廉は気分が元に戻ったと申し上げた。
加藤景廉周辺の系図
加藤景廉は、藤原北家魚名流(房前の5男)の流れを汲む一族。
[藤原北家流]
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加藤景員
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加藤光員 加藤景廉
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遠山景朝 [遠山氏の祖]
父(景員|かげかず)と兄(光員|みつかず)とは、伊豆国への下向、頼朝挙兵への参陣など、共に行動しています。
兄 加藤光員
承久3(1221)年 承久の乱では朝廷方(後鳥羽上皇)に属して戦った。景廉は鎌倉幕府方。
鎌倉幕府軍が勝利した為、光員の所領(伊豆国牧之郷)は没収され景廉に与えられた。
結果的に加藤家は存続した。
遠山景元(遠山の金さん)
加藤景廉からは随分と遠くなってしまいますが、景廉の長男「景朝」が美濃国恵那郡の遠山荘を相続し遠山姓をなのり、岩村城を本拠として分家が各地で繁栄したようです。
明智遠山家の分家の六代目。
加藤景廉ゆかりの地
現 伊豆市牧之郷
加藤景廉は牧之郷の豪族。北条地区からは南へ約7kmほどの場所にあります。
今は伊豆市に所属しています。
伊豆箱根鉄道には「牧之郷」駅があって、駅の中に加藤景廉一族の墓に関する説明板が設置しています。
車の人には見れない説明板ですね。


加藤景廉公一族の墓
▶ 伊豆市牧之郷53-35|伊豆箱根鉄道大仁駅~牧之郷駅の間の線路脇|
牧之郷駅から約700m(徒歩10分)、大仁駅から約1.7km(徒歩20分)程度の場所にあります。
牧之郷・沖の原地区にある6基の五輪塔。加藤景廉一族の墓と伝わっています。
昭和33年の狩野川台風によって流されたものをここに集め祀ったようです。


金剛寺跡(加藤氏菩提寺)
上記の加藤景廉一族の墓の横に金剛寺についての説明板も設置されています。
牧ノ郷の地頭だった、加藤氏とその子孫遠山氏の菩提寺(今は廃寺)だそうです。
寺が流失したのは、室町時代の狩野川の大洪水の時。
地名には、寺中、堂の前、弥陀堂などが残っているとのこと。


岩村城(恵那市岩村町)
▶ 恵那市岩村町字城山
文治元(1185)年 源頼朝の重臣「加藤景廉」がこの地(美濃国恵那郡遠山荘)の地頭に補せられ築城。
以降、明治の廃城令によって廃城するまで700年間に渡って存続した、日本三大山城の一つ。