上総広常|坂東の巨頭、頼朝の策略で早々に誅殺される千葉氏の従兄弟

上総広常|坂東の巨頭、頼朝の策略で早々に誅殺される千葉氏の従兄弟

2022-02-27

上総(権介)広常(かずさ ひろつね)

生誕不詳-1184。上総介広常。
源義朝の郎党。上総国を中心に大きな勢力を有していた御家人。頼朝の意を汲んだ梶原景時に誅殺される。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、上総広常役を「佐藤浩市」さんが演じられます。

上総広常の簡易年表

時期年齢出来事
不明0誕生
保元元(1156)年保元の乱で、源義朝(頼朝父)軍に属する
平治元(1159)年平治の乱で、源義平(義朝子)に従い戦う。義平十七騎の一騎。
父が亡くなると、上総氏内で家督を巡る内紛が発生
治承4(1180)年従兄弟の千葉常胤と共に2万騎の大軍を率いて遅れて合流
寿永2(1183)年頼朝が与えた水干の事で、岡崎義実と喧嘩寸前に。佐原義連が仲裁に入る
頼朝の命を受けた、梶原景時天野遠景によって、誅殺される

吾妻鏡から

吾妻鏡から、上総介広常の人となりが分かる内容をピックアップ。
ただし、吾妻鏡には、上総広常が死去したとされる寿永2(1183)年の1年間の内容は残っていません。

上総広常の頼朝軍合流まで

治承4(1180)年 9月13日

頼朝が安房国を出て上総国に赴いた。しかし、上総広常は軍士を集めている為、しばらく遅れて参上するという。千葉氏は、平家方の下総国目代を誅殺するため、千葉常胤が胤頼らに追討を命じ、目代の首を刎ねた。

同年 9月17日

頼朝は、上総広常が来るのを待たず、下総国に向かった。
千葉常胤は、子息、太郎胤正二郎師常、・・・六郎胤頼、嫡孫らを伴い下総の国府にて頼朝と合流した。

同年 9月19日

上総広常は、上総国の周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の者たちを率いて軍勢二万騎で隅田川の辺りに参上した。頼朝は広常の遅参に非常に腹を立て許す様子はなかった。

広常は「今は平家の世。その中で、特別な準備も無く流人の身で挙兵した頼朝に見込みがなければ、すぐに討ち取り平家側に差し出してやろう」と、内心は思い、外面は帰伏したように参上した。

この数万の兵を見たら、さぞ喜ばれるだろうと思っていた所、頼朝に遅参を咎められた。
この様子を見て、人の主になるに相応しい人物と謀反の心を改めて、進んで頼朝に従った。

この後に、秀郷の合流に喜んだ平将門と藤原秀郷の話が付け加えられています。

初の論功行賞

治承4(1180)年10月23日

頼朝は相模の国府に到着し、初めて勲功に対する恩賞を行った。
上総広常らは、本領を安堵されたり、新恩を給与されたりした。

また、捕らわれてた平家方の「大庭景親」が相模国府にやってきて、上総広常が身柄を預かった。

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門葉(源氏一門)との婚姻関係

養和元(1181)年 2月1日

足利義兼が北条時政の娘を娶った。また、加賀美(小笠原)長清が上総広常の婿となる。
両人とも、人柄が穏やかで、頼朝の覚えがめでたく、特別の命令でこのような運びになったという。

頼朝に対し下馬の礼をせず

養和元(1181)年6月19日

詳しくは、三浦(佐原)義連のページを参照ください。

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広常の御機嫌取り

養和2(1182)年 正月23日

上総広常の婿だった、伯耆守「平時家」が頼朝の下に初陣。

平家一門の時家は、継母の讒言により上総国へ配流されており、去年から頼朝のご機嫌を損ねていたため、その罪を償うために推挙した。京都からの客将であり、蹴鞠、管弦、礼儀にも通じていたため気に入られた。

愚管抄から

愚管抄とは、九条兼実の弟で天台宗の僧侶「慈円」が書いた鎌倉時代初期の史論書。巻1~7まで。
愚管とは私見の謙譲語。

巻6 頼朝の上京(上総広常の誅殺)

源頼朝が1190年にようやく上洛し、鎌倉へ下向する前日に院に参上し後白河法皇と対面。
上総広常を討ち取った理由を話したことが書かれたのち、詳細が書かれています。

命を受けた梶原景時助八郎(上総広常)を殺したのだが、景時は広常と双六をしていたが、景時が双六の盤の上をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ頼朝の前に差し出された

上総広常周辺の系図

上総氏と千葉氏は従兄弟の関係です。

平常永
 ├-----------------------┐
上総常晴                    平常兼
 |                       |
上総(平)常澄                  千葉常重
 |                       |
上総広常                    千葉常胤
 ├------┬------┐         ├-----┬
 能常    平時家室   小笠原長清室    千葉胤正  相馬師常

※系図の表示が崩れる場合は、「画面を横向き」にしてご覧ください。

上総広常の父である上総常澄は、三浦義澄の加冠を担当し元服させた(名前に澄があるのはこのため?)

また頼朝の父である源義朝が、少年時代に為義(義朝父)の縁故で上総国に下向した時に、養父のように保護した人物です。

上総氏ゆかりの地

上総介塔(横浜市朝比奈町)

朝比奈バス停近くにひっそりと建っている五輪塔。
朝夷奈切通近くに館があった上総広常の供養塔と伝わっています。

朝比奈史跡保存会が昭和59年に再建と、右の石碑の裏に書かれています。

上総広常屋敷跡(鎌倉)

正式な場所は分かっていませんが、鎌倉での上総広常の屋敷跡は朝夷奈切通の入口付近と考えられています。

安房から上総、下総、武蔵と移動して鎌倉に入ると大蔵(大倉)の地に居館を造営することにし、治承4(1180)年10月9日に大庭景能を奉行(責任者)にして建造を開始しました。

その工事期間中、頼朝は上総広常の屋敷に住んでいたとされ、居館が完成したときは、広常の屋敷から大蔵の新邸へ向かったようです。

治承4(1180)年 12月12日

亥の刻(午後10時頃)、頼朝の新居への引越の儀が行われた。
上総広常の家を出て、大蔵御所の新居に入った。

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武家の古都「鎌倉」を歩く」という本には、上総広常の屋敷は、三郎の滝の上側、十二所果樹園付近でないかと書いています。

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