木曽義高(源義高)|父義仲に連座する形で誅殺された、頼朝の長女大姫の許嫁

木曽義高(源義高)|父義仲に連座する形で誅殺された、頼朝の長女大姫の許嫁

2021-10-10

木曽義高(きそ よしたか)

1173?-1184
河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。源義高、清水冠者。
木曽義仲と、源頼朝の権力争いに巻き込まれて、大姫の許嫁という名目の人質となり、最後は誅殺される。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市川染五郎さんが演じられます

木曽義高の簡易年表

時期年齢出来事
承安3(1173)年0誕生(父:木曽義仲
寿永2(1183)年11人質(大姫のという名目)として鎌倉へ
寿永3(1184)年父、木曾義仲が粟津の戦いで討たれる
4月21日頼朝の誅殺計画を知った大姫が義高を鎌倉から脱出させる
4月26日12入間河原でに捕らえられ誅殺された
建久8(1197)年心が深く傷ついた大姫は病床に付し、回復せぬまま死去

木曽義高を頼朝の人質に出すことを巴御前と相談していることから、義高の母は巴御前?と思われますが、年齢的にその説は無さそうです。(巴御前の生誕は不詳ですが・・・)

木曽義高が人質となり鎌倉へ

木曽義高(源義高)が鎌倉へ来た理由は、許嫁という名の人質。
源氏内での内部闘争に巻き込まれた形ですが義高はすでに11才。背景を知っての鎌倉入りだったかもしれません。

寿永2(1183)年2月

頼朝と敵対しまた追い払われた、志田義広(義朝弟)と源行家(義朝弟)を、木曽義仲が保護した為、頼朝との仲が険悪になり、武力衝突寸前に。この時、和議が成立して、嫡男「義高」が鎌倉へ送られた。

頼朝、木曽義高の誅殺を決める

周りから見ても、義高と大姫は仲睦まじかったらしく、父の義仲が殺されても義高の命は助けるように政子は頼朝に働きかけるも、頼朝自身が助命されたが為に平家を討とうとしているのに、どうして生かしておくことができようかと考えるのは当然ですね。

元暦元(1184)年4月21日

頼朝の聟となっていた清水冠者(源義高)は、父義仲の誅された子であるから罪は逃れ難いため、誅殺すべきだと内々に決めた。

頼朝に近く従う者たちにその命令を伝えたところを女房たちが聞いて密かに大姫に伝えた。
義高は、同年で長く仕えた海野小太郎幸氏と入れ替わり、女房の姿になって早朝に鎌倉を脱出した。

事がバレたのは夜になってから、頼朝は非常に怒り、幸氏は監禁、義高を討ち取るように軍兵を派遣した。

木曽義高の死去

木曽義高(源義高)が討たれたのは入間河原(現 埼玉県狭山市入間川)。
祖父「義賢(義仲の父)の地「大蔵(現 埼玉県比企郡嵐山町大蔵)」や、義仲を助けた畠山重能の地「菅谷館」がある嵐山方面に助けを求める途中でした。

元暦元(1184) 4月26日

入間河原において、清水冠者を誅したことが報告された。
秘密事項だったが、大姫は聞いてしまい嘆きのあまり飲食を断った。北条政子も心を痛めた。

入間川

木曽義高の死後

木曽義高が誅殺された後、残党蜂起の企てや、命令を受けて誅殺した郎従が逆に梟首されるという理不尽な事が起こっていました。

元暦元(1184)年5月1日

故清水冠者(木曽義高)の党類が、甲斐・信濃で謀反を起こそうと企ているとの情報あり。
足利義兼をはじめ、小山、宇都宮、比企、河越、相模、伊豆、上総の御家人達に出陣せよと、和田義盛比企能員に命じた。

元暦元(1184)年5月2日

前日の件で、諸国の御家人が鎌倉へ馳せ参じた。

暦元(1184)年6月27日

清水冠者を誅殺した堀藤次親家の郎従が梟首された。
この事件以降、大姫が病床に伏された、すべては親家の郎従の不始末から起こった。と北条政子が憤慨したため。これについては頼朝も何ともできなかった。

木曽義高周辺の系図

木曽義高は、源義仲の嫡男。母は中原兼遠(義仲の乳母父)の娘。
中原兼遠の子には、義仲四天王の今井兼平、樋口兼光をはじめ、巴御前?と伝わる。

なお、巴御前は吾妻鏡には出てこなくて、「源平盛衰記」で義仲の妾として登場しています。

源義賢       源義朝   北条時政
 |         |     |
木曽義仲      源頼朝===北条政子
 |            ├------┬------┬
木曽義高===(許嫁)===大姫    源頼家    源実朝

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

木曽義高も大姫も同じ源氏の血を引くもの同士で、それも人質兼許嫁として鎌倉へ送る理由になったとか。

木曽義高ゆかりの地

木曽義高の墓

鎌倉市大船にある常楽寺の裏山(粟船山)が木曽義高の墓(木曽塚)と伝わります。
少し下には大姫とも、北条泰時の娘とも言われる墓がある。

木曽冠者義高之墓|常楽寺の裏山に建てられた木曽義仲嫡男の墓(石碑を読む)
鎌倉市大船にある常楽寺。建長寺を開山する前に蘭渓道隆が滞在していたという臨済宗建長寺派のお寺なのですが、その裏にある粟船山に木曽義仲の嫡男「清水冠者義高(木曽義…
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源義高終焉地(清水八幡宮)

▶ 埼玉県狭山市入間川3丁目35-10|🅿?|

北条政子と大姫が義高の霊をまつるため、討ち果てた地、入間河原に建てた社(清水八幡)
ただ、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなく、場所もはっきりしないとのこと。

説明板には、常楽寺の裏山にある石碑も載ってますね!

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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