北条政村|兄泰時の時代から、常に得宗家を支えてきた有力北条氏の一人

北条政村|兄泰時の時代から、常に得宗家を支えてきた有力北条氏の一人

2022-12-04

北条政村

1205-1273 鎌倉幕府第7代執権、
北条義時の5男も、長男は側室、2~4男は離別のため、継室(正室)の長男でした。

元服の時の烏帽子親は三浦義村北条時政三浦義村の名前から「政村」と名乗ります。

伊賀の方(母親)が起こしたとされる、伊賀氏の変で執権に持ち上げられようとするも失敗し、伊賀の方は流罪となるも、政村にまで罪は及ばなかった。それ以降、兄泰時時代以降、得宗家を支え続けた。

北条氏常盤亭跡

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新原泰佑さんが演じられます。

北条政村の簡易年表

年代年齢出来事
元久2(1205)年0誕生(父:北条義時、母:伊賀の方)
※同日に畠山重忠の乱が発生
貞応3(1224)年20父:北条義時死去、
伊賀氏の変が起るも、泰時の計らいで政村は刑を受けず
延応元(1239)年35評定衆に就任(最初の役職就任)
宝治元(1247)年43宝治合戦が起き、三浦一族が滅びる
建長8(1256)年52兄重時(出家引退)に代わり、連署となる
文永元(1264)年607代執権に就任
※得宗家「北条時宗」が14歳だったため、とりあえず「連署」に
文永5(1268)年64蒙古国書が到来
時宗が執権に、政村が連署の体制となる
文永9(1272)年68二月騒動
文永10(1273)年69出家し「常盤院覚崇」と号し、同月に死去

吾妻鏡より

北条政村の元服

9歳という若さで、三浦義村を烏帽子親として元服したことが、さらっと書かれています。

建保元(1213)年 12月28日

夜、北条義時が可愛がっている若君(後の北条政村、9歳)が御所で元服した。三浦左衛門尉義村が加冠を勤めた。四郎政村と号した。

北条政村周辺の系図

北条政村の母「伊賀の方」は、北条義時の継室で13人の宿老の一人「二階堂行政」の血を引いている女性です。

伊賀の方|北条義時の継妻、身内で鎌倉幕府の体制を作り上げようとするも・・・
伊賀の方(いがのかた) 生没年不詳。鎌倉幕府2代執権北条義時の後妻。7代執権になった北条政村、金沢流北条氏の北条実泰、を産んでいます。 伊賀の方は、藤原秀郷(藤…
1192-diary.com

伊賀の方が産んだ政村と実泰は5男、6男ですが、仮名は四郎、五郎。
これは、側室が産んだ4男(異母兄)「有時」より序列を上にするため。有時の仮名は六郎。

                  二階堂行政
                    |
          北条時政     伊賀朝光=====二階堂行政の娘
           |        ┣
          北条義時=====伊賀の方
      ┏----╋     ┣------┳------┓
    北条泰時  北条重時  北条政村  北条実泰   北条時尚
     [得宗]   [極楽寺流]   [政村流]   [金沢流]   [陸奥七郎]

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

北条時頼時代から行われた、秘密会議「深秘の沙汰」にも参加しているほど、鎌倉幕府の中枢メンバーの一人でした。政村から繋がる系図を政村流とも呼びます。

北条政村ゆかりの地

北条氏常盤亭跡(通称:タチンダイ)

北条氏常盤亭跡は、北条政村を始めとする、有力北条家一門が別邸を構えていた場所とされています。国指定史跡。

近くには大仏切通しもあり、鎌倉へ向かう重要な街道を臨む場所にあり、外敵から備える意味もあったと思われます。

北条氏常盤亭跡の横には、極楽寺流から繋がる塩田流北条氏「北条義政(北条重時の子)」の別邸もあったとされ、下記のYouTubeで紹介しています。

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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