目次
源頼政(みなもと の よりまさ)
1104-1180。保元の乱と平治の乱を勝ち抜き、源氏として破格の従三位に昇叙された摂津源氏一門。摂津渡辺氏を配下に収めていた。
源氏で三位になった初めての人物で、「源」氏の「三位」で、源三位頼政とも呼ぶ。
晩年は平家の横暴に耐えかねて、以仁王と組み全国の源氏へ平家打倒の声を上げ、源頼朝が鎌倉幕府を成立させたきっかけを作った人物。
治承4年(1180)年 4月
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 24, 2021
以仁王と共に挙兵した源頼政。
終焉の地は宇治平等院。
観光客の多くは鳳凰堂に夢中で、頼政公のお墓を見に来る人は皆無でした😅#宇治 #平等院 #京都 #世界遺産 pic.twitter.com/8HBtPVAvgn
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、品川徹さんが演じられます。
源頼政の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
長治元(1104)年 | 0 | 誕生(父:源仲政) |
父仲政の下総守の赴任に同行する | ||
保延年間 | 家督を譲られ、鳥羽院に仕え、美福門院(藤原得子)とも交流する | |
保元元(1156)年 | 53 | 保元の乱 後白河天皇方に与し勝者へ |
平治元(1159)年 | 56 | 平治の乱 二条天皇を擁する清盛に味方し勝者へ |
治承2(1178)年 | 74 | 平清盛の推挙により従三位に昇叙 |
治承4(1180)年 | 76 | 4月9日 密かに以仁王の三条高倉御所に参上し、平治打倒の令旨を下される |
4月27日 高倉宮(以仁王)の令旨が、頼朝のいる伊豆国北条館へ到着 | ||
5月26日 以仁王の挙兵 三井寺から南都興福寺へ向かう途中、宇治平等院で平家軍に討たれる |
頼政長男「仲綱」に対する侮辱
源頼政が源三位まで出世できたのは、清盛のおかげだったが、以仁王に謀反を持ちかけるまでになったのには、些細な事件がきっかけだった。
頼政の長男「仲綱」は評判の名馬を持っていた。
それを聞きつけた、平宗盛(清盛3男)は、馬を連れてくるようにと度々使者を出したが、断り続けていた。しかし遂には頼政に宗盛は平家を継ぐ方だから差し上げよと言われ、宗盛の元へ届けられた。
宗盛は、馬に「仲綱」と名付け、「仲綱め走れ」「仲綱めを鞭で打て」等、侮辱し悔し涙を流す仲綱。
仲綱は頼政にその事を伝えると、そのようなひどい仕打ちをと。謀反を決意した。
と平家物語には書かれています。
源頼政の死去と伊豆地方の影響
源頼朝が流された伊豆地方の伊豆守に、平治元(1159)年から任じられていたのが源頼政。
その後、頼政の嫡男「源仲綱」が継ぎます。
以仁王の乱が失敗に終わり、源頼政と仲綱が討たれた後、伊豆守は平家側(平清盛の義理の弟「平時忠」)に渡り、源氏の源頼朝や頼朝を匿う北条氏、頼政側の工藤氏、が圧政を受け、挙兵に繋がったとも考えられます。
源頼政周辺の系図(全体)
源頼政は清和源氏の頼光流(摂津源氏)の流れを組みます。
保元の乱・平治の乱で戦ったりした河内源氏の源為義、義朝、以仁王の令旨を受け取った源頼朝とは、多田満仲で分かれています。
源経基(経基王)
|
多田満仲
├-----------┬----------┬
頼光(摂津源氏) 頼親(大和源氏) 頼信(河内源氏)
| |
頼国 頼義
| |
頼綱 頼家
| |
仲政 義忠
| |
頼政 為義
| ├------┐
義朝 行家
|
頼朝
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
源行家
以仁王の令旨を全国の源氏に伝え歩いたのが、為義の十男「源行家」
平家に反旗を翻した頼政は、血筋(河内源氏)がよく、新宮で生まれ育ち熊野山伏の情報のネットワークを持ち、弁舌達者な行家を八条院蔵人に推したうえ、「平家を討つように」という以仁王の令旨(命令書)を伝達する使者として白羽の矢をたてました。
源頼政周辺の系図(詳細)
源義朝 源頼政 源義賢
| ├---(養子)---┐├-------┐
源義経 源仲綱 源仲家 木曽義仲
| ┌----┤
女===源有綱 源宗綱
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
源頼政は摂津源氏ですが、河内源氏一族とも繋がりを深めています。
平治の乱以降、河内源氏は没落していましたから、頼政を頼ったのかもしれません。
養子 源仲家(木曽義仲の同母兄)
久寿2(1155)年の大蔵合戦で、源義賢が甥の源義平に襲撃され戦死。
当時、京都に居た仲家(義賢の嫡男)は、頼政に保護されて養子となって育った。
その関係もあり、以仁王の挙兵では養父の源頼政と行動を共にして、宇治平等院辺りで戦死した。
源頼政ゆかりの地
平等院(世界文化遺産|古都京都の文化財)
宇治にある平等院は、永承7(1052)年に関白の「藤原頼道」によって父「藤原道長」の別荘を寺院に改めて創建した場所。阿弥陀如来を安置する鳳凰堂が有名ですが源頼政の終焉の地とされ墓所があります。


源三位頼政公墓所
最勝院の境内の中にある宝篋印塔です。命日は5月26日。
平等院を訪れる多くの方の目的は「鳳凰堂」なので、ココを見に来る方は、ほぼいらっしゃいません(汗)


扇ノ芝(頼政公終焉の地)
宇治川の橋合戦で敗れた頼政が自害したとされる場所が扇ノ芝。
表門を入ってすぐの左へ向かう道を歩いて行くと扇ノ芝があります。観音堂の裏手です。


西琳寺(旧弥勒寺|伊豆の国市)
▶ 静岡県伊豆の国市古奈|🅿あり(古奈もみじ公園)|
西琳寺は、宇治川の戦いで敗れた源頼政の菩提を弔う為に、生まれ故郷だった、妻のあやめ(菖蒲)御前が草庵を結んだ場所。弥勒堂にはあやめ御前の念持仏と伝える弥勒菩薩があります。
源頼政は平治元(1159)年に伊豆守に任じられていますから、伊豆で菖蒲と知り合ったということでしょうか。


あやめ御前供養塔
昔は西琳寺の境内にあったようですが、今は古奈もみじ公園の奥側に移っています。


あやめ御前供養塔のちかくには「あやめ小路」という道があります。
大将軍神社(京都市東山区)
別名、東三条社。平安遷都の時に王城鎮護の為、京都の四方(ココは東)に祀った大将軍社の一つ。
源頼政の鵺(ぬえ)退治の伝説があります。

ちなみに、都の四方におかれた「大将軍神社」


東:「東三条大将軍社」
西:「大将軍八神社」
南:「藤森神社境内大将軍社」
北:「今宮神社境内大将軍社」or「西賀茂大将軍神社」
神明神社(京都市下京区)
繁華街「四条烏丸」の近くにひっそりと佇む「神明神社」
元々は藤原忠通の屋敷跡で近衛天皇が皇居とした場所。近衛天皇(在位:1141-1155)を脅かした「鵺」を、この神社で祈願した後に退治したと伝わります。
近衛天皇の在位中の話だとすると、源頼政がアラフィフの頃の出来事ですね!

