源義平|鎌倉悪源太と呼ばれ、父義朝と共に平治の乱で戦った、頼朝の兄

源義平|鎌倉悪源太と呼ばれ、父義朝と共に平治の乱で戦った、頼朝の兄

2021-10-01

源義平(みなもとのよしひら)

1141-1160
父:源義朝の庶長子。母は三浦義明の娘、か京都郊外の橋本の遊女。源頼朝、範頼、義経の異母兄。

鎌倉悪源太義平(鎌倉の剛勇な源氏の長男)とも呼ばれた。
※この時代の「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」という意味

大河ドラマ「平清盛」では、源義平役を波岡一喜さんが演じられました。

源義平の簡易年表

時期年齢出来事
永治元(1141)年0誕生(父は源義朝、母は三浦義明の娘)
久寿2(1155)年15大蔵合戦
大蔵館(武蔵国比企郡)で、叔父「義賢」と舅「秩父重隆」を討ち取る
保元元(1156)年16保元の乱
(東国にいて、戦には出ていない?)
平治元(1159)年19平治の乱
奮戦するも敗北。父義朝と東国を目指して落ち延びる
永暦元(1160)年20義朝と離れた後、父の死を知り、敵を討つべく京都に戻り捕らえられる
六条河原にて処刑

父義朝関東に下向

義朝は、弟「義賢(木曽義仲の父)」との嫡流争いに負け東国へ下向させられましたが、東国で独自の勢力を持とうと、相馬御厨、大庭御厨の支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、三浦義明や大庭景義らを傘下に収めました。

そんな中、三浦義明の娘を妻にして、長男の義平を産みます。
ちなみに、次男の朝長は、相模の豪族波多野氏の娘を妻にして産んでいます。

叔父義賢との戦い「大蔵合戦」

義朝が京へ戻り、三男「頼朝」を産んで、鳥羽院や院近臣に近づき、従五位下・下野守に任じられ、祖父為義をも超える立場となりました。

藤原摂関家へ接近する父「源為義」とは考えが合わず対立。義朝の勢力を削ぐために義賢を上野国へ下向させます。

対立構造としては、 義朝・義平親子 vs 為義・義賢親子 でしょうか。

そこで、久寿2(1155)年、同じく東国で勢力を伸ばしてきたライバル叔父義賢を、父義朝の命令で討たせたのが大蔵合戦。大蔵は義賢の拠点だった現比企郡嵐山町。(世田谷区大蔵の説もあり)

平治の乱で奮戦

藤原信頼に与し平清盛と敵対した父義朝は東国にいた悪源太義平に援軍を要請。
義平は、三浦氏、上総介氏、山内首藤氏など東国武士を引き連れて都に上った。

午前10時に合戦開始。待賢門を守っていた信頼(公家ですし・・・)が、平重盛軍に簡単に破られ、義平が援護に向かう。

平重盛を撃退、義平17騎

重盛軍500騎に対し、義平軍は17騎。

三浦義澄渋谷重国足立遠元上総広常、平山季重、熊谷直実、斎藤実盛、などなど

わずかな手勢に追い立てられた重盛は引きました。

しかし、戦闘は敗北。父義朝とともに東国を目指して落ち延びた。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国を目指すも、父義朝の死を知り京へ戻った。

悪源太義平の死と霊

父義朝の死を聞いた悪源太義平は平清盛を討とうと上洛。
都に潜伏していたが捕らえられてしまい、六条河原で難波経房(平家家人)によって斬首された。

その時、難波経房に「雷となっておまえを蹴り殺すぞ」と言い残す。

後日、仁安3(1168)年、平清盛が布引の滝(現神戸市)に遊覧した時、共をしていた難波経房は、雷となった悪源太の霊に打ち砕かれた。

源義平周辺の系図

源義平清和源氏(河内源氏)の流れを組んでいます。

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源為義
 ├-----------------┬
源義朝               源義賢
 ├-----┬-----┬     |
源義平   源朝長   源頼朝   源義仲(木曽)
 |           |     |

朝長や頼朝と違い官位を得た記録は無く、義朝の嫡子とは見なされていなかった。
義平の母は、三浦義明(三浦義澄の父)の娘と言われ、父義朝と一緒に鎌倉(東国)へ下向し暮らしていた。

源義平ゆかりの地

光照寺(逗子市沼間)

創建は不詳とされているものの、平治の乱で敗れた源義朝の長子「鎌倉悪源太義平」の供養に建てられたと伝えられているそうです。

この近くには、源義朝の「沼浜の館」が有った場所とされ、義平の母である三浦一族の三浦衣笠にも近く、義朝・義平親子の東国の拠点となった可能性がありそうです。

大蔵館跡(埼玉県嵐山町)

久寿2(1155)年、15歳の時、伯父の帯刀先生義賢を討った大蔵合戦の地。

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