本端寺・見桃寺・大椿寺|三浦半島先端にある頼朝三崎三御所

本端寺・見桃寺・大椿寺|三浦半島先端にある頼朝三崎三御所

2021-10-07

桜、桃、椿の御所(頼朝の花の三御所)

三浦半島の三崎港の周辺(三浦半島南西部)にある、源頼朝も花を愛でに訪れたといわれる大椿寺(椿の御所)、本瑞寺(桜)、見桃寺(桃)の3寺院を、頼朝三崎三御所と言うようです。

寺紋がササリンドウ(大椿寺)

今は、御所と言われるような趣は一切ありませんが(汗)、鎌倉時代初期の頼朝を感じることができる旧跡です。

各寺院の説明板には、

建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は風光の優れた三浦の地に三つの御所を設けました。

とありますが、吾妻鏡には下記のような記載が見られます。

建久5(1194)年閏8月1日
源頼朝が三浦に行かれた。これは、三崎津に御山荘を建てるため。

三崎三御所の場所

本端寺(桜の御所)

本端寺は「桜の御所」と言われた寺院。
現在は、江戸時代の享保4(1719)年に、雲海山(入舩の波切不動堂一帯)にあったものを移した場所です。

頼朝だけじゃなくて、二代将軍頼家や三代将軍実朝も訪れたようです。

見桃寺(桃の御所)

見桃寺は「桃の御所」があった所。
鎌倉将軍、頼朝や実朝、摂家将軍だった藤原頼経などもしばしば来遊したようです。

現在はお寺と言うか、公民館のような佇まいになっています。。。

大椿寺(椿の御所)

大椿寺は「椿の御所」と言われたところ。
この御所には頼朝の側室が住んでいたようで、頼朝が頻繁に訪れる理由にもなっていそうです。

頼朝の死後は、この側室は尼となり「妙悟尼」として、三十余年ここに過ごし頼朝の菩提を弔っていたと、説明板には書かれています。

名前からは思い浮かびませんが、「妙悟尼」の本名は「妙子」
北条政子にばれて、匿っていた鎌倉伏見広綱の家を壊され、三浦義明の三男太田和義久に保護を求めたりと大変だった「亀の前」だそうです。

「実録三浦党」岩間尹著書より

三崎(花の三御所)訪問記録

源頼朝

吾妻鏡には、建久5(1194)年以降から、頼朝が三崎を訪れる記述がチラホラ見かけるようになります。
奥州合戦なども終わり、鎌倉幕府も平和な時代が到来したことの証でしょうか。

三崎を訪れると、大体2泊3日の行程となり、三浦半島を治める三浦氏が頼朝を接待している様子が分かります。吾妻鏡には具体的な3寺院の名称は出てきませんが、三崎に行くと御所には立ち寄ってると思われます。

建久5(1194)年 9月6日
源頼朝(将軍家)が三浦の三崎の別荘に行かれた。

建久6(1195)年正月25日
源頼朝が三浦の三崎津に出かけた。船中で遊興があり、三浦義澄(69)の一族が食事を準備し、27日(三日後)に鎌倉に戻った。

建久6(1195)年8月26日
歯の病気が良くなったので、舟に乗って海浦を回り三崎に渡り遊覧した。
今年の3月に東大寺供養の結縁のために上洛し、鎌倉に戻ってきてからは三崎の遊覧はしていなかった。

頼朝が、この頃、歯の病気を患っていることも分かります。
吾妻鏡って面白ですね。

吾妻鏡には、頼朝が死去する直前の三年間(1196-1198)が欠けていますが、その間も三崎に度々訪れたのではないでしょうか。

来迎講(竹御所)

来迎講とは、二十五菩薩が衆生を浄土に導くために来迎する様子を表現する法会のこと。

安貞3(1229)年2月20日
竹御所(28|頼家娘、藤原頼経妻)と北条泰時妻が三浦の三崎津に出かけた。三浦義村(62?)が来迎講を行うため。

翌日 2月21日
三崎の海上で来迎講が行われた。風は穏やかだった。走湯山の僧を招き、十余艘の船を浮かべてその上で来迎講を行った。装飾は夕日の光に照り映え、終わると説法が行われた。
その後、御船に乗られて島々を見て回った。

翌日 2月23日
竹御所が三崎から帰られた。
義村の子「家村」を森戸の辺に遣わし、善を尽くし美を極めた食事を用意した。

藤原頼経

頼経の妻「竹御所」が来迎講に行った後日や翌年に、頼経も三崎まで遊びに行っています。
その時の執権と連署が同行していたり、三崎を治めていた「三浦義村」が接待しているのも分かります。

寛喜元(1229)年4月17日
朝8時に藤原頼経(将軍家)が三崎津に出かけられた。
北条時房、北条泰時ら多くの者が同行。三浦義村が御船を三崎の裏に用意、佐原家連が遊女らを伴い参向した。
三日後の19日に鎌倉へ帰られた。

寛喜2(1230)年3月19日
藤原頼経(将軍家)が御遊覧のために三崎の磯に出かけた。山桜の花が盛りだった。
領主の三浦義村が接待をし、北条時房、北条泰時も同行した。四日後22日に鎌倉へ帰られた。

三浦義村の墓は三崎に近い場所にあります。

三浦義村|頼朝死後の御家人闘争で三浦氏の地位を押し上げた有力御家人
三浦義村(みうらよしむら) 1168?-1239。鎌倉殿の13人(十三人の合議制)の一人、三浦義澄の次男(嫡男)で、三浦氏当主。 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で…
1192-diary.com

三浦一族嫡流の本拠地は衣笠ですが、この時は子の「泰村」に引き継いで、本人はお気に入りの三崎に居を構えていたのかもしれません。

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