三善康信|京都から情勢を頼朝に知らせていた公家。初代問注所執事。

三善康信|京都から情勢を頼朝に知らせていた公家。初代問注所執事。

2022-01-26

三善康信(みよし やすのぶ)

1140-1221。公家、文士。鎌倉時代の初代問注所執事。13人の合議制の一人。
京都では太政官の書記官役(下級役人)を代々世襲。算道(算術研究)の家柄出身。

三善康信の母は、頼朝の乳母の妹で、その縁で鎌倉下向までは、毎月三回使者を送って洛中の情勢を、伊豆配流中の頼朝へ伝え続けた。

※文士とは、武士と違い文筆能力、政治、法律の知識を持つ人材。他には大江広元

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小林隆さんが演じられます。

三善康信の簡易年表

時期年齢出来事
保延6(1140)年0誕生(父:三善康光、母:頼朝乳母の妹)
治承4(1180)年41諸国に源氏追討の計画があることを、頼朝に使者を使って知らせる
寿永3(1184)年45頼朝から鎌倉に呼ばれ、京都から下向。
武家の政務を補佐するよう依頼され、初代問注所執事(長官)に
正治元(1199)年60十三人の合議制の一人となる
承久3(1221)年82承久の乱
会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持。
承久の乱後、死亡。

三善康信が鎌倉に下向したのは40歳を過ぎてから、すでに出家をした後のようで、大夫属入道、善信、などと吾妻鏡には出てきます。

三善康信の名前で出てくるのはほんのちょっとです。

吾妻鏡から・・・

三善康信のような鎌倉幕府の文士として活躍した人たちは、合戦には軍事的に参加するのではなくて政治的に参加をしています。京の天皇・公家などとのやり取りは、ほぼ文士たちが取り仕切っています。

伊豆の頼朝へ定期的に連絡

洛中の情勢、平清盛の死去などの情報は、三善康信から頼朝へ伝えられました。

治承4(1180)年6月19日

三善康信の使者が北条に到着。
「先月(5月)26日に以仁王が討ち死にされた後、以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討せよという命令がだされています。貴殿は源氏の正統ですから要注意です。早く奥州にお逃げください」と。

いつもは普通の使者だが、今回は重大事ということで、康信の弟「康清」を使者として使わせた。

※鎌倉殿の13人では、この内容が、三善康信の早とちりだったということらしいと。

治承5(1181)年 閏2月19日

三善康信の書状が鎌倉へ到着。
洛中の詳しい情勢と共に、今月4日、平相国(平清盛)が死去し、その遺骨を送る為に播磨国へ下っていたが、世の中の情勢が少し落ち着いたら参上する。と。

養和元(1181)年3月7日

三善康信が、京から書状で次のように申し送ってきた。
後白河院の殿上で話し合いがあり、武田信義に対して頼朝追討を命令した」との風聞があります。と。

養和元(1181)年8月26日

三善康信が送った飛脚が、「康信が今月1日福原から京へ戻ってきましたが、16日に官軍等が東方を目指して出陣しました。十分に注意なさってください」と。

※16日に平家方は木曽義仲、源頼朝を追討するために出陣している

康信ついに鎌倉へ下向

寿永3(1184)年4月14日

遂に三善康信が京都から鎌倉へ下向しました。
その翌日に鶴岡八幡宮の廻廊で頼朝と対面。

「これからは、鎌倉に居を構えて、武家の政務を補佐してほしい」と命令されました。

後白河法皇への誕生日プレゼント

文治2(1186)年 正月21日

後白河 法皇 が今年御年60歳(還暦)になられるため、お祝いのため、上絹、国絹、米、斑幔など京都へ進上した。三善康信(大夫属入道)がこの事を取り仕切った。

問注所の移設

正治元(1199)年 4月 1日

問注所を御所の郊外に建てられた。三善康信を執事として、今日初めてその決定がなされた。

以前は御所中で訴訟の対決をしていたが、野次馬多く、騒動もあり、熊谷直実と久下直光との境相論では直実が鬢髪を切るなどして、しばらく御所での対決は停止し、三善康信邸で行っていた。

不動産的な仕事もこなす

正治2(1200)年 2月12日

北条政子(尼御台所)の御願として伽藍を建立するために、源義朝の旧跡、亀谷の地を選定された。
二階堂行光、三善康信がこの地を巡検した。

翌日、堂舎(現寿福寺)造営の事始めを、三善康信、二階堂行光奉行した。

三善康信周辺の系図

康信の母が、頼朝の乳母の妹という関係で、京に居ながら頼朝と関係を持っていたようです。
が、複数人いる頼朝の乳母(比企尼、山内尼、寒川尼、その他?)とは誰なのかは分かっていないとのこと。。。

三善康光(or 康久)======頼朝の乳母の妹
          |
         三善康信
          ├-----┬----┐
         三善康俊   行論   康連
          |         [太田氏]
          康持
          |
          康永
          |
         問注所康行

康持の孫「康行」から、問注所と名乗っています。なんという名前を付けるんでしょうか・・・。

また、康信の末子「康連」は法律にも精通し、北条泰時の命で「御成敗式目」の条文制定の中心人物の一人だったようです。

三善康信ゆかりの地

なお、三善康信の鎌倉での館(途中、問注所も兼ねる)は名越にあったようです。

問注所旧跡(鎌倉市)

三善康信が初代執事を務めた問注所旧跡(石碑)があります。

問注所旧蹟|今で言う裁判所跡、三善康信が初代執事を務める(石碑を読む)

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裁許橋

鎌倉十橋の一つ、裁許橋。訴訟を判決する問注所が近くにあったことに由来。

六地蔵

鎌倉時代、六地蔵の北側には刑場があり「飢渇畠(けかちばたけ)」と呼ばれる荒れ地だった。
罪人供養の為、六道から救うと言われる六体の地蔵が祀られています。

場所は、由比ガ浜大通りと今小路の交差点。上記の裁許橋、問注所は今小路上にあります。

飢渇畠|由比ガ浜大通りの六地蔵、鎌倉の刑場があった場所(石碑を読む)

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