目次
鎌倉長尾氏
桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。
鎌倉時代の長尾氏はそれほど有名ではありませんが、宝治合戦でしぶとく生き残った長尾氏の子孫は、室町時代に関東管領上杉氏の家臣に。
その後、長尾景春、長尾景虎(上杉謙信)など、有名な人物が続きました。
祖 長尾景弘
鎌倉景明の息子、大庭景宗の弟、景弘が相模国鎌倉郡長尾庄(現、栄区長尾台町周辺)に住んで長尾次郎景弘と称した。この長尾景弘が長尾氏の祖になる。
平良文(村岡五郎良文)
|
平忠光(ニ伝寺にお墓あり)
|
平忠通(ニ伝寺にお墓あり)
|ーーーーーーーーーーーーーー┐
三浦為通(嫡男) 鎌倉章名(かまくら あきな)
鎌倉の名前を初めて冠する「鎌倉章名」のお兄さんは、三浦を初めて名乗る為通です。
鎌倉章名(かまくら あきな)
├ーーーーーーーーーーーーーーーーー┐
鎌倉景村 鎌倉景通
| |
鎌倉景明 梶原景久(梶原氏の祖、梶原景時へ)
├ーーーーーーーー┐
大庭景宗 長尾景弘(長尾氏の祖)
大庭氏と長尾氏は元々兄弟関係だったのと、さらに先代では梶原氏が分裂していました。
長尾景弘(長尾氏の祖)
|
長尾定景(石橋山合戦、公暁討伐)
|
長尾景茂(宝治合戦)
|
長尾景忠(景茂4男、宝治合戦の少ない生き残り)
長尾定景
長尾氏の祖「長尾次郎景弘」の子孫「長尾定景」
治承4年(1180年)8月 石橋山の合戦では、源頼朝を守るため、俣野五郎景久と一騎打ちをしていた「佐奈田与一義忠」を討ち取った人物。(源平盛衰記)
平家側の総大将は「大庭景親」。先陣は弟「俣野五郎景久」と家臣、長尾兄弟。
源頼朝の鎌倉入りで長尾兄弟は御家人として加わったが、俣野氏は生涯を平家に尽くしたという。
佐奈田義忠を討ったため、頼朝に実に不届き者だとされ、父「岡崎四郎義実」に身柄を預けられていたが、養和元(1181)年 7月5日 許された。
囚人として日々を送っていた定景は法華経を大切にし、毎日転読して決して怠ることが無かったという。「定景の読誦の声を聞くたびに怨念も失せてきました、もし定景を誅したら、かえって義忠の成仏の妨げになるのでは?」と。頼朝に申したという。
また、健保7年(1219年)1月、三代将軍源実朝を殺害した鶴岡八幡宮別当「公暁」を討った人物。
長尾定景の墓が、鎌倉市植木の「久成寺」にあります。
長尾景茂
長尾定景の子
宝治元年(1247年)6月 宝治の乱で三浦泰村方について、泰村が敗れた後、北条時頼軍に襲われ、景茂父子は源頼朝の法華堂で自刃、鎌倉長尾氏の主流は滅亡。
系図を遡れば元々は三浦氏と分裂した一族ですからね。三浦氏側に付くのは良く分かります。
横浜市栄区長尾台町の範囲
鎌倉長尾氏ゆかりの地
長尾氏ゆかりの地マップ(地図)
YouTubeで見る
長尾砦跡
JR大船駅を大船観音側(西口)に出て柏尾川を渡ります。
そして、柏尾川沿いに横浜市栄区方面(右側)にずっと歩いて行くと笠間大橋が見えますが、その手前を左側に折れると人気の寂しい上り坂があり、その先に長尾砦跡の看板が設置されています。

小田原北条氏が築いた玉縄城の出城で長尾砦と言われるようですが、歴史は古く平安時代から鎌倉長尾氏がこの辺に住んでいたようです。
今は草木が生い茂っていて、特に砦を歩く道も無く、看板のみ見学という感じ。。。

長尾氏の居館跡(長尾御霊神社)
長尾砦跡からほど近い距離にある「長尾御霊神社」
この神社境内附近が鎌倉長尾氏の居館跡と言われています。
社務所もなく、小さな村社といった佇まいで、神社の右側に説明板が設置されています。


長尾御霊神社の由緒には、長尾次郎(鎌倉長尾氏の祖)は鎌倉権五郎景政の玄孫と書かれていますね。

久成寺
くじょうじ。日蓮宗。
永正17年(1520年)日蓮宗を信仰していた小田原北条氏の家臣「梅田尾張守秀長」の寄進を受けて建立。
ここに、源実朝を暗殺した公暁を斬った武士「長尾定景の墓(室町時代の宝塔、長尾一族の墓)」がありますが、長尾台から移されたもの。
また、江戸時代には徳川家康が鷹狩りの時に久成寺に立ち寄り、ユズ献上のお礼に葵の紋が付いた弁当箱を賜り、寺の門が丸に葵となっている。