中原親能|朝廷と幕府の折衝役を務めた頼朝の側近。鎌倉殿の13人の一人。

中原親能|朝廷と幕府の折衝役を務めた頼朝の側近。鎌倉殿の13人の一人。

2021-08-30

中原親能(なかはら ちかよし)

1143-1209。鎌倉幕府の文官御家人。13人の合議制の一人。大江広元は弟。藤原親能とも。
中原親能と源頼朝は「甚深の知音(親友中の親友)」で、一緒に暮らしていたとも言われています。

大江広元を頼朝に推薦したのが、この中原親能です。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、川島潤哉さんが演じられます。

中原親能の簡易年表

時期年齢出来事
康治2(1143)年0誕生
治承4(1180)年38平家方からの尋問される前に、京都から出奔
寿永2(1183)年41鎌倉から義経に同行し京へ出立
寿永3(1184)年42木曽義仲を討伐して入京。頼朝代官として公家との交渉など務める
公文所設置の折、5人の寄人の一人に選ばれる
建久2(1191)年48政所の公事奉行人になる
正治元(1199)年56十三人の合議制の一人になる
承元2(1209)年66京都で死去

吾妻鏡より前の時期ですが、幼い時は相模国で養育されて、後に京都で下級官人となったようです。

吾妻鏡には・・・

吾妻鏡では中原親能はいろいろな名称で呼ばれています。

斎院次官、美濃権守、式部大夫、散位、掃部頭、穀倉院別当などなど。色んな役職についていたのでしょう。
後半は出家して入道、入道寂忍とも。

中原親能は主に文士として活躍されているので、政治的な場面でよく登場しますが、平氏追討の謀略を土肥実平と画策したり、範頼の参謀として各地を転戦したりと、文武両道な人物だったと思われます。

鎌倉と京と行き来

元暦元(1184)年 4月29

中原親義(前斎院次官)が使節として、平家追討に関する頼朝の命令を奉行するために上洛。
土肥実平梶原景時も同時に出発。

合わせて、広田社(広田神社|兵庫県西宮市)に寄進する内容の御下文も合わせて。

※斎院次官とは、斎院司(京都賀茂神社の斎宮の事務)の次官(長官の次)、官位相当は従六位上。

文治3(1187)年 2月16日

美濃権守中原親能が京に上る使節として鎌倉を出発。
来月の上旬頃に後白河法皇が熊野詣をされるということから、朝廷への貢ぎ物、馬十頭を伴っていた。

政所の吉書始

建久2(1191)年正月15日

政所の吉書始が行われた。以前の頼朝の御花押、奉書は召し返され、家の御下文を改めて発給する

政所 
 別当 大江広元(前因幡守平朝臣広元)
 令  二階堂行政(主計允藤原朝臣行政)
 問注所執事 三善康信(中宮大夫属三善康信法師)
・・・・
侍所
 別当 和田義盛(左衛門少尉平朝臣義盛)
 所司 梶原景時(平景時) 

公事奉行人 中原親能(前掃部頭藤原朝臣親能) 他6人
京都守護  一条能保(右兵衛督)
鎮西奉行人 天野遠景

三幡(頼朝次女)の死去により出家

正治元(1199)年 6月25日

中原親能が、三幡の事で京都から鎌倉に到着した。
京で重要な案件をこなし多忙だったため、今になってしまったとのこと。

同年 6月30日

昼12時頃、姫君三幡が死去した。14歳。母の北条政子はじめ、人々はとても悲しんだ。乳母夫だった掃部頭藤原(中原)親能が出家した。午後8時頃に三幡を中原親能の亀谷堂の傍らに葬った。

中原親能周辺の系図

系図に関しては、「江氏家譜」「尊卑分脈」「大江氏系図」「中原系図」「大友家文書録」で、異なります。

中原広季
 ├---------------┐
中原親能            大江広元
 ├-----┐(養父)
中原季時   大友能直

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

戦国時代、九州の豊後国(大分県)を本拠した「大友宗麟」。
その大友家初代が、中原義能が養父だった「大友能直」です。

中原氏と大友氏の関係は、中原氏が幼少の頃相模国で養育されていましたが、その養育した人物が、波多野義通りの弟で「大友四郎経家」。

中原親能は、経家の娘を妻(三幡の乳母)にしています。

中原親能は、日本各地(特に九州[豊後、筑前、肥前、日向、大隅、薩摩等])に多くの荘園を持っていたので、これを相続して強くなったと言われています。

中原親能ゆかりの地

岩船地蔵堂(鎌倉市)

亀ヶ谷坂を降り切った扇ガ谷側にポツンとあるお堂は海蔵寺管理の岩船地蔵堂で、源頼朝の長女「大姫」を供養する地蔵堂と言われています。

また、頼朝と北条政子の次女「三幡(享年14歳)」の墓とも言われています。

これは、中原親能の妻が三幡の乳母だった関係で、三幡が死去し、遺体は鎌倉亀谷堂の中原親能の傍らに葬られたと、吾妻鏡に書かれているからです。

三幡が危篤の折、猶子だった「大友能直」が、京都から医師の「丹波時長」を親能邸に連れてきました。
三幡を助けるのが乳母一族の使命ですからね。

畠山重忠邸(石碑)

その後、丹波時長は(御所の近くに居た?)三幡の近くで病気を治療するために、御所近くにあった「畠山重忠館」に移住しました。

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石山寺(毘沙門堂)

和束(現京都府相楽郡和束町?)で起こった反乱の討伐に向かう時、石山寺(滋賀県)に詣で、観音様に勝利を祈願しました。石山寺の門を出発したとき、中原親能の前に毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができた。
と、「石山寺縁起絵巻」は伝えています。

また、中原親能の妻は、亀谷禅尼として石山寺に住しました。石山寺には宝篋印塔もあります。

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