大内惟義(おおうち これよし)
生没年不詳
門葉筆頭として頼朝の信頼が厚い平賀義信の長男で、伊勢国守護に補任されたときに、伊勢国大内荘の地頭職も兼ねた頃から大内冠者と記されるようになる。平賀惟義とも。
頼朝死後は、伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津の近畿6か国の守護に任命される。
大内惟義の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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生誕日不詳 | 0 | 誕生(父:平賀義信) |
木曽義仲追討、一ノ谷の戦いに参加 伊勢国守護に補任される | ||
相模守に補任される | ||
勝長寿院では、源義朝(頼朝父)の遺骨への近侍を許された | ||
文治5(1189)年 | 奥州合戦に従軍 | |
建久元(1190)年 | 頼朝の上洛に随行 | |
正治2(1200)年 | 梶原景時与党の追補を命じられる | |
元久2(1205)年 | 牧氏事件 異母弟「平賀朝雅」が北条義時の命で誅殺、惟義は連座せず。 | |
この間に死去したとされる | ||
承久3(1221)年 | 承久の乱 子の惟信は後鳥羽院側に与し敗戦。平賀・大内氏が滅亡。 |
大内惟義周辺の系図
大内惟義は源義光(新羅三郎義光)の曾孫にあたります。
母親は不明で、母が比企尼の三女とする平賀朝雅(義信次男)は異母弟です。
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源頼義(河内源氏)
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義家(1039) 義光(1045)
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義親(?) 義国(1091) 義業(1067) 義清(1075) 盛義(?)
| | (佐竹氏) (甲斐源氏) |(平賀氏)
為義(1096) 足利義康(1127) 平賀義信(1143)
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義朝(1123) 足利義兼(1154) 大内惟義 平賀朝雅
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頼朝(1147) 義氏(1189) 大内惟信
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
清和源氏一門で父「平賀義信」は源氏御門葉の筆頭で、頼朝の信頼も厚かった。