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佐々木盛綱(ささき もりつな)
1151-死没不詳
近江源氏佐々木氏棟梁「佐々木秀義」の三男。別名三郎。
佐々木盛綱の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
仁平元(1151)年 | 0 | 誕生(父:佐々木秀義、母:源為義の娘) |
仁安元(1166)年 | 16 | 元服して秀綱から盛綱に。(烏帽子親は安達盛長?) |
治承4(1180)年 | 30 | 頼朝挙兵に従い、石橋山の戦いで敗北 庇護を受けていた渋谷重国(平家方)の館に逃れる |
富士川の戦い、常陸の佐竹秀義討伐に参陣 | ||
元暦元(1184)年 | 34 | 藤戸の戦い(平氏追討)で先陣 平行盛(清盛次男、基盛の長男)軍の城を攻め落とす |
建久元(1190)年 | 40 | 盛綱の子「信実」が工藤祐経の額を石で打ち流血、親子の縁を切る |
建久6(1195)年 | 45 | 頼朝上洛(東大寺供養)に従う、兵衛尉に。 |
建久10(1199)年 | 49 | 頼朝死去後に出家し「西念」に。 |
元久2(1205)年 | 55 | 京にいた平賀朝雅を討つ軍に加わる |
工藤祐経の流血事件と子「信実」との絶縁
頼朝の寵臣だった工藤祐経が、自分の立場に少し調子に乗ってしまった事件とも言えます。
建久元(1190)年7月20日
御所内で双六の会があり、佐々木三郎盛綱が頼朝の相手をし、子の佐々木太郎信実(15歳)が傍らにいた。
工藤祐経が後から参加し、座る場所が無かったため、信実を抱き上げてその跡に座った。
信実は顔色を変えて退出、礫を一つ持ってきて額を打ち、その血が水干の上に流れ落ちた。
頼朝がとても怒ったため、信実は姿をくらまし、盛綱が追いかけたが行方が分からなかった。
翌 7月21日
信実は出家し逃亡。身柄を差し出すよう命じられたが見つけられないので、永久に義絶した。
頼朝に「しかし、祐経に対して謝るように」と言われた盛綱は「父として陳謝するのは勇士の本位ではない、上の御計らいで宥められるべきでは?」と拒否。
頼朝は藤原邦通を恩師として祐経に「盛綱は信実を義絶したから、今後は根に持たない様にと」
祐経「事の起こりを考えると信実に道理があります、盛綱に対して異心は持ちません」と。
佐々木盛綱周辺の系図
佐々木盛綱は、頼朝挙兵当初から参陣した「佐々木四兄弟」の三男。
佐々木爲俊 源為義
| ┌----┴----┬
佐々木秀義(1112)===== 源為義の娘 源義朝
├------┬------┬-------┬-------┬
定綱(1142) 経高(?) 盛綱(1151) 高綱(1160) 義清(1160以降)
├ |
信綱 信実(加地氏)
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※系図の表示が崩れる場合は、「画面を横向き」にしてご覧ください。
子 佐々木(加地)信実
1176-1243
加地の祖。加地は、平家追討で父盛綱が賜った越後国加地荘(現、新潟県新発田市)
工藤祐経に侮辱を受けて流血事件を起こして、盛綱に絶縁された子の信実。
承久の乱で、結城朝光とともに北陸道の軍勢の上洛を指揮し、その功で備前国守護になる。
備前国は、父盛綱が源平藤戸の戦いで活躍した場所ですね。
近江源氏(佐々木氏)ゆかりの地
小動神社(鎌倉市)
▶ 鎌倉市腰越2-9-12|江ノ島電鉄腰越駅から徒歩6分
小動神社(こゆるぎじんじゃ)。
佐々木盛綱が祖父の領国、近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。
元弘3(1333)年5月に、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝祈願をした場所もココの様です。




児島藤戸(藤戸の戦い)
数ある治承・寿永の乱(源平合戦)の中の一戦。藤戸の戦い。
平家追討の為に西海へ出撃するさなか、藤戸で立ちはだかった平家軍に頼朝の命で佐々木盛綱が戦った一戦。
盛綱橋や佐々木盛綱の像などがあります。
加治城址
▶ 新潟県新発田市東宮内|
鎌倉時代前期に佐々木盛綱が築城した城