清少納言|随筆『枕草子』を執筆、中宮「定子」に仕えた才女

清少納言|随筆『枕草子』を執筆、中宮「定子」に仕えた才女

2023-03-02

清少納言(せいしょうなごん)

966?~1025? 随筆「枕草子」を書いた歌人。

生没年ともに不詳。本名も不詳。摂政・関白「藤原道隆(道長の兄)」の娘「定子」に仕えました。
 ※男性中心の平安時代、女性の事について記録が無いのは当たりまえの時代。

清少納言とは宮中における名前で、「清」は清原姓から、「少納言」は不明です。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では、清少納言役を「ファースト サマーウイカ」さんが演じられます。

清少納言の簡易年表

時期年齢出来事
康保3(966)年0誕生
天延2(976)年9父が周防守となり、父と共に山口県へ移り住む(4年間)
天元4(981)年16橘則光と結婚、翌年、息子「則長」誕生
永祚2(990)年25父が肥後(熊本県)で亡くなる、翌年、結婚を解消
 →4年前に肥後守となり下向していた
正暦4(993)年28中宮「定子」のもとへ宮仕え
長保3(1000)年35皇后「定子」が死去
 →「彰子」が中宮となり、「定子」は皇后へ
長保3(1001)年36宮仕えを止めて、藤原棟世と再婚。枕草子が完成
寛弘2(1005)年40紫式部が中宮「彰子」のもとへ宮仕え
万寿2(1025)年60死去

清少納言は紫式部のライバルとよく言われますが、清少納言が宮仕えを終えてから、紫式部が宮仕えを始めていて、宮中では一緒に居たことは無いようです。(諸説あります)

ただ、今の世界でも「前に卒業した先輩に凄い人が居たらしい!」という噂話があるように、存在は知っていて、紫式部の「源氏物語」などの作品に影響を与えたことは間違いないかもしれません。

清少納言周辺の系図

清少納言は宮仕えをする前に一回、宮仕えの後に一回と計2回結婚をしていたようです。

    清原元輔=====母(不明)
          |
橘則光=====清少納言=====藤原棟世(藤原南家)
     |        |
    橘則長      小馬命婦

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

清原元輔(きよはら の もとすけ)

908-990 清少納言の父。歌人。三十六歌仙の一人。
宮中では「さすが、清原元輔の娘」と言われたとか、言われてないとか。父も相当有名だったよう。

命婦(みょうぶ)

後宮に仕える中級の女官や女房の総称。
命婦は数多くいたので、父や兄、夫などの官職名を付けて「〇〇命婦」と呼ばれた

清少納言周辺の相関図

権力を求めて親族間で争う藤原家
清少納言は長男「藤原道隆」-娘「藤原定子」グループに属するような形になっています。

ライバルの紫式部は、5男「藤原道長」グループです。


      藤原道隆    円融天皇    藤原道長   
       |       |       |
清少納言→→→定子=====一条天皇=====彰子
   (仕える)   |        ┣-------┓
          敦康親王    後一条天皇   後朱雀天皇

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

中宮 藤原定子

977-1001 第66代「一条天皇」の皇后、父は「藤原道隆」
一条天皇の寵愛を受けるも、父「道隆」の死去、兄「伊周(これちか)」の没落によって後ろ盾を失う。

第二皇女(3人目)を出産した直後に崩御(享年25)

清少納言は定子が亡くなって宮仕えをやめた、しばらくは続けていたとかいろんな説があるようです。

清少納言ゆかりの地

車折神社(清少納言社)

京都の嵯峨嵐山地方にある車折神社(くるまざきじんじゃ)。
神様が「清原頼業(きよはらよりなり|1122~1189)」ということで、清少納言より後の人物です。

清原一族の中に清少納言もいてその関係で、ここに祀られるようになったとか。

紫式部や源氏物語に関する書籍

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