今回は、鎌倉市と横浜市金沢区をつなぐ歴史道「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」の石碑を読んでみました。大切通と小切通と二つあったなんて、石碑を読むまで知りませんでした。
称名寺を本拠地にした、金沢流北条氏も鎌倉時代に良く通ったんでしょうね。
目次
朝夷奈切通(国史跡)
「朝夷奈切通」石碑の場所
三郎の滝がある場所、朝夷奈切通のスタート地点に設置されています。
石碑に書かれている文字は?
鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ大切通小切通ノ二ツアリ土俗ニ朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切拔タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルルモ
東鑑ニ仁治元年(皇紀一九〇〇)十一月鎌倉六浦間道路開墾ノ議定アリ
翌二年四月經營ノ事始アリテ執権北條泰時其所ニ鑑臨ミ諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ微シ此切通ハ即其當時ニ於テ開通セシモノト思料セラル
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
鎌倉七口の一つで、鎌倉から六浦を結ぶ重要な場所にあり、大切通、小切通の二つあった。
この場所の伝説によれば、朝夷奈三郎義秀が一晩のうちに切り開いたので、その名前が付いたと伝えられるが、
吾妻鏡に1240年(仁治元年)11月に鎌倉六浦間の道路を開墾する会議があり決定した。
翌1241年(仁治2年)4月、工事の着工があり、執権の北條泰時がその場所に行き監督し、多くの人が土石を運んだと記載されている。
この朝夷奈切通は、その当時、開通したものと考えられる。
昭和16年3月建 鎌倉市青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
土俗:その土地の住民、伝説
經營:經→現在の「経」|経営
事前知識(歴史編)
仁治元年
1240年。にんじ。1240-1243年。
四条天皇、後嵯峨天皇。藤原頼経(将軍)、北条泰時、経時(執権)の時代。
朝夷奈三郎義秀
朝夷奈切通に、この方は欠かすことができません。
江戸時代に生まれた伝説のようですが、朝夷奈切通はこの朝夷奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという。
朝夷奈三郎義秀は名前にあるように「三男」
父親は、初代侍所別当の「和田義盛」です。つまり広い括りで三浦一族ということですね。
とても武勇に優れた人物だったようで、
1200年 源頼家(2代将軍)が小坪海岸で「泳いで」と命令し、自体出来ずにサメを三匹抱えてもどってきた ※吾妻鏡より
とか
和田合戦では、父「和田義盛」をよく助け先頭に立って戦い、御所を丸焼きにし、でも傷一つ負わなかったとか
とんでもない武士です(汗)
最後は負けを察して、海上から安房国へ逃げて、再起を図るもそれ以降行方が分からなくなったということらしいです。残念ですね。
鎌倉七口
鎌倉の出入り口は七つあったと言われています。それが鎌倉七口。
鎌倉は三方を山で囲まれているので、鎌倉外へ出るには厳しい峠越え。
なので、山や丘陵を切り開いて作った道「切通し」を造ったんですね。
三方を山で囲まれ要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければならなかった。「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のこと。交通の要路であると同時に、外敵からの侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなった。
新版改訂 鎌倉検定公式テキストブック
朝夷奈切通しは、そのうちの一つです。他に仮粧坂なんかもありますね。