今回は、鎌倉市にある鎌倉十橋の一つにもなっている「乱橋」の石碑を読んでみました。
「らんばし」って読んでしまいそうですが、正式には「みだればし」と読みます。
読み仮名分からないと本の索引とかで調べられませんからね。読み方を知るのは重要です。
目次
亂橋(乱橋|みだればし)
「乱橋」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
乱橋又濫橋ト作リ一石橋ノ名ナリ
橋ノ南方ニ連理木アリテ名高シ
東鑑ノ寶治ニ年六月ノ條ニ 十八日寅刻濫橋ノ邊一許町以南雪降リ其ノ邉霜ノ如シ ナトアリ 辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ鎌倉十橋ノ一ナリ
昭和四年三月 鎌倉町青年團
乱橋、または、濫橋と言い、一石橋という名前もある。
橋の南側に連理木があって有名だった。
吾妻鏡の1248年(宝治2年)6月の条に、18日寅刻(午前四時頃)に濫橋の周辺に雪が降って、霜が降りた様に真っ白だった。とある。辻町と材木座との境に流れる小川に掛かる逆川橋と共に、鎌倉十橋の一つである。
昭和4年3月 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
連理木:れんりぼく|二本の樹木、枝が密着結合したもの、縁結びの信仰の対象
事前知識(歴史編)
寶治ニ年
1248年。ほうじ。1247-1249年。
後深草天皇、藤原頼嗣(将軍)、北条時頼(執権)の時代
辻町
大町交差点の近くにある「町屋址」の石碑に、辻町の地名が記載されてますね。
鎌倉十橋
江戸時代の「新編鎌倉志」で紹介された、鎌倉にある有名な10の橋。鎌倉十橋。
乱橋(みだればし)のもう一つの言われ
新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入ったとき、北条幕府軍の防衛線がくずれはじめたのがこの橋辺りだったことから、乱橋(みだればし)と呼ばれるようになったと言われる
鎌倉検定ガイドブック(新版改訂)
こちらの言われを頭に入れておくと、乱橋を(みだればし)と覚えやすくなりますね。
陣形がみだれたと。
この乱橋は石碑は大きいから見つけやすいですけど、橋は気にしなかったら通り過ぎちゃうと思います。
幅も1mくらいですし、欄干とかもないですしね・・・。
こんな小さな橋に、石碑が立ち、名前の由来があり、後世に残っていくんですから、鎌倉って面白い街ですね。