今日は奈良時代にできた鎌倉最古のお寺「杉本寺」から、開山をキーワードに奈良時代の事をちょっと調べてみました。
杉本寺
杉本寺は8世紀建立という鎌倉最古のお寺で有名ですね。
コケの階段がとっても有名なんですけど今回そこは無視。
鎌倉では見られない開基「光明皇后」の名前があるのでそこを深掘ってみたいと思います。
開山の「行基」については、鎌倉に所縁ある場所をちょっとまとめた下記の記事がありますので。
ちなみに杉本寺の案内板には書いてませんが、光明皇后は行基以外にも右大臣「藤原房前」も一緒に建立させたみたいですね。
藤原房前(681-737年)は、一番栄えた藤原北家の祖。
光明皇后とは、20歳年上の藤原房前の異母兄にあたりますね。
光明皇后
701-760年。聖武天皇(第45代天皇)の妻で同い年。通称:光明子(こうみょうし)。
藤原不比等と県犬養橘三千代との子。なので、藤原一族。
ココだけでも随分と深掘れますね。
人物を知るのに家族関係・人間関係の背景を知っておくことはとっても重要です。
藤原不比等は中臣鎌足の子。鎌足は中大兄皇子(天智天皇)と大化の改新を実行し藤原姓を貰う。
聖武天皇は奈良の大仏を作った人。
藤原一族が、自分の娘を天皇の嫁にするという政略結婚で力を付けようとし始めた頃ですね。
光明皇后の年表
701年 誕生
718年 阿部内親王(孝謙|称徳天皇)を出産
724年 聖武天皇が即位し入内
727年 基王(第一皇子)誕生も翌年死去。
729年 長屋王の変。(藤原一族との権力闘争)
734年 鎌倉・杉本寺の建立を御願
749年 娘の孝謙天皇が即位
752年 東大寺大仏の開眼法要(聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇列席)
756年 聖武天皇崩御
760年 光明皇后崩御
こうやって年表を見て行くと、長屋王の変っていう権力闘争が終わってちょっと平和な日本になり、東日本にも目を向ける余裕が出来た時に、杉本寺の建立に至ったって感じなのでしょうか?
長屋王の変
一時期まで全く意味が分からなかったのが、この長屋王の変。
これは藤原一族vs皇族勢力との対決だと理解することが出来るかがポイントですね!
で、自分が上記の構図を理解できたのはこの漫画のおかげです。
長屋王は藤原一族とは全く関係のない天武天皇の孫。
そして、藤原一族とは関係のない元明天皇や元正天皇などと一緒に登場して、藤原一族の事について相談するシーンが多く描かれるんですね。
聖武天皇は天智天皇(皇族側)の父「文武天皇」と、藤原一族の「宮子」の間に生まれたハイブリッド。
そこに嫁ぐ藤原一族の「光明子」。
で、藤原一族の血が入った希望の星「基王」が幼くして無くなってしまったので、ライバルの長屋王を殺す羽目になったと。
まあ、ドロドロした血筋の争いな訳でなんですよねー。
光明皇后が関わった寺院等
光明皇后は仏教に帰依して、今でいう病院の悲田院・施薬院を設置するなど慈善事業もしてたそうです。
興福寺
もう有名過ぎて説明いりませんね(笑)
法相宗大本山。南都七大寺の一つ。藤原氏の氏寺。神仏習合で春日社も掌握。
法華寺
大和の三門跡尼寺(他は中宮寺、円照寺)。総国分尼寺として諸国の国分尼寺を総括。
藤原不比等の旧邸宅を光明子が皇后宮とした。
かきつばたが有名
新薬師寺
華厳宗。747年、聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が建立。本尊が薬師如来。
入母屋造の本堂は奈良時代後期の建立で国宝。
桜、萩、サザンカの名所。
光明皇后の御陵
佐保山に夫の聖武天皇と並ぶようにして、仁正皇太后陵があります。
光明皇后の尊号が天平応真仁正皇太后っていう名前から名づけられています。
光明って単語が入らないから全く分かりませんね・・・。
聖武天皇と光明皇后の御陵の入口は一つなんですよね。
そして途中で夫婦で道が分かれると。
仲良かったんでしょうかね。そういや天武天皇と持統天皇も同じ御陵(檜隅大内陵|ひのくまのおおうちのみささぎ)ですね。
と思えば、仁徳天皇陵と磐之媛(仁徳天皇の皇后)は、県をまたぐほど離れてたり。
知識があれば、それだけでいろいろ想像できて楽しいですね。
さて、光明皇后ゆかりの地は、平城京周辺にかたまってましたね。
またゆかりの地を見つけたらこのコンテンツに追記していきたいと思います!
※奈良についてのコンテンツは親サイト(大人の教養学習ノート)にて