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源平墨俣川の戦い(治承・寿永の乱)
治承5(1181)年3月10日
長良川をはさんで源平の大激戦が展開されたのが、源平墨俣川の合戦。
源氏方の中心人物は、源行家(為義十男)、源義円(義朝八男)。
平氏方の中心人物は、平維盛(重盛嫡男)、平重衡(清盛五男)。
源氏軍の大敗という結果で終わった。源平墨俣川古戦場は、大垣市指定史跡
墨俣川の戦いの背景
源氏vs平家の戦いが近江・美濃などで行われる中、富士川の戦いで敗北した後に体制を整えた平家方。
治承5(1181)年閏2月4日に亡くなった「平清盛」は、遺言で「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と残したこともあり、また、源行家が尾張方面へ進出したとの情報を得て、平重衡を大将とする軍を尾張へ派遣。
墨俣川(現長良川)を挟んで対峙した。

墨俣川の戦いその後
逃げ残った源行家は、臣下を捨て身一つになって、源義仲軍を頼って落ち延びた。
源義仲は、ちょっと前に頼朝に謀反を起こした「源(志田先生)義広」も匿い、頼朝と義仲が敵対していく。
そして、義仲の嫡男「木曽義高」が、頼朝の長女「大姫」の許嫁という名目で、人質として鎌倉へ送られる。
源義円
1155-1181
源義朝の8男で源頼朝の異母弟。幼名:乙若丸)
母は常盤御前、阿野全成(幼名:今若丸)は同母兄、源義経(幼名:牛若丸)は同母弟
平安時代末期の僧侶で、頼朝の命により援軍として陣(墨俣川の戦い)に参加したときに義円と名乗り、平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた。享年27歳。
源平墨俣川古戦場ゆかりの史跡
墨俣川古戦場ゆかりの史跡が点在する場所の近くには電車が通っていません。
路線バスの本数もあまりないようで、駐車場のない史跡も多いです。
岐阜羽島駅(JR東海道新幹線)にあるレンタサイクルを借りて回るのがベストかと思います。
※1日300円。電動付きはありません。

JR岐阜羽島駅から義円公園までは約5km。自転車だと20~30分で到着です。
義円公園
▶ 岐阜県大垣市墨俣町下宿39-1|🅿なし|
墨俣の長良川河畔近くに「義円公園」
公園内にはほかにも「墨俣川合戦の碑」や「源義円供養塔」などがある


義円地蔵
義円公園内にあります。

義円供養塔
義円公園内にあります。

源義円の墓
▶ 岐阜県大垣市墨俣町下宿52|🅿なし|
義円公園より150m西に「源義円」の墓があります。
義円公園沿いの道路に、源義円の墓への案内が塗られているので、これを参考に進めば大丈夫です。


墓は周りに何もない畑の一画にお墓があります。
源義円が討たれたと思われる場所の近く、平家の陣を奇襲したところを殺されたので、平氏方の陣が近くにあったのでしょうか。
一乗寺
▶ 岐阜県羽島市小熊町西小熊4292|🅿あり|
開基は空海で819年創建。
源義円の墓と、合戦が行われた墨俣川(現長良川)を挟んで、ほぼ向かいあった場所にある小熊山一乗寺。
こちらは、源氏側(源行家)の陣と考えられているようです。
墨俣川の戦いでは、墨俣から西小熊(一乗寺付近)が主戦場となって多くの戦死者がでたと。


境内の中には、墨俣川有縁無縁物故者と書かれた場所に沢山の供養塔が置かれています。
源平合戦の戦死者の者だけでなく、いろんな年代のものがありそうです。

義円公園からは長良川を渡るには、「長良大橋」を渡る必要があって少し遠回りになります。
鎌倉街道(大垣市)
▶ 岐阜県大垣市墨俣町上宿348-1|🅿なし|
義円公園から、北に250m行った所に、不破神社・西来寺がありますが、その一角に、鎌倉街道についての説明板、石標が建っています。
昔は橋なんてなかったので、墨俣上宿(この辺)と小熊(一乗寺付近)に、無料休憩所を作り、渡舟の数を増やしたと書かれています。


京都と鎌倉を結ぶ重要な街道だったようで、源頼朝、藤原頼経(鎌倉幕府4代 征夷大将軍)、阿仏尼(十六夜日記著者)等が通っています。
墨俣川(現長良川)の川幅は広くて水量もまあまあ。
川の両端は、山や高台なども無く、ほとんど平地のような土地が広がっています。
このような場所だと、兵力がモノを言うか、奇襲作戦かで戦うしかないのかなと、思ったりしますね。