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石橋山合戦敗北後の源頼朝の軌跡
石橋山の合戦に負けて安房へ逃れた頼朝は、安房国から下総国府に向かった。
千葉氏はその途中にあり、頼朝は千葉を通過した可能性が高く、千葉市内には頼朝ゆかりの場所が複数残されている。
頼朝行動の簡易年表(主に千葉県内)
年号 | 月日 | 出来事 |
---|---|---|
治承四年(1180年) | 8月28日 | 相模国真鶴を出発 |
8月29日 | 安房国猟島に上陸 | |
9月5日 | 上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送る 州崎明神(安房国一宮)へ参拝し出発 | |
9月13日 | 頼朝が安房→上総(市原市)に到着 千葉胤頼と、千葉成胤(千葉常胤孫)が下総国目代の首をはねる | |
9月14日 | 千葉常胤を襲撃しようとした下総国の領家「藤原親政」を 千葉成胤が生け捕りにする | |
9月17日 | 上総(市原市)→下総国府(市川市)に入り、千葉常胤が参陣する | |
10月6日 | 鎌倉へ入府 |
藤原親政
ふじわらのちかまさ。生没年不詳。藤原北家為光流。父が下総守「藤原親盛」。
平忠盛(平清盛の父)の婿。かつ、平資盛(平重盛の次男)の伯父。という親平家勢力の代表的存在。
平忠盛 藤原親盛
├――――┬―――┬― ┌――┴――┬
平清盛 平宗盛 娘===藤原親政 |
| |
平重盛==================娘
├――――┬
平維盛 平資盛
父の藤原親盛は、千葉常重(千葉常胤の父)から、相馬御厨や立花荘(東荘)を奪取した経緯があり、千葉氏から恨まれていた可能性があります。
国府(国衙)
国衙(こくが)とは律令制度下の諸国の政庁。
コトバンク
国府の区画の中で中央北の方2町が充てられた。
国衙の建物?倉庫?には、年貢や優秀な人材、土地台帳などが保存されていたため、その地を支配するに必要なものが揃っていた。
なので、源頼朝は諸国の国衙を抑えようと必ず立ち寄り、そこで論功行賞などを行った。
上総国府(国衙)の場所(推定値)
現在の千葉県市原市
下総国府(国衙)の場所
現在の千葉県市川市
君待橋
石橋山合戦後の源頼朝の行動日程によれば、
君待橋で源頼朝と千葉胤頼(常胤6男)が出会ったのは9月13~17日の間でしょうね。
昔、この地に都川に流れ入る小川があり、そこに、小さな橋がかかっていた。治承4年(1180年)千葉常胤の子、胤頼(6男)が、この橋のたもとで源頼朝を出迎えた時に橋の名を問われて次の和歌を詠んで答えたという
見えかくれ 八重の潮路を 待つ橋や 渡りも敢へず 帰る舟人
また、みちのくに向かう藤原実方が、この橋にさしかかって里人に橋の名をたずねたところ「君待橋」とこたえたので
寒川や 袖師が浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にそしらるる
と詠んだと伝えられている。
なおこの橋には次のような哀話もある。昔、橋の近くに住む美しい乙女が、対岸の若者と相愛の仲になり、ここが二人の逢う場所となっていた。ある日、大雨のため橋が流されて、悲しみにくれている乙女を見た若者が濁流を泳いで渡ろうとして、途中で力尽き水中に没してしまった。これをみた乙女は悲しみのあまり、激流に身を投げ、若者の後を追った。このことがあってから、里人が「君待橋」と呼ぶようになったという。
このような由緒ある君町橋は、昭和44年、千葉都市計画港町地区土地区画整整理事業のため取り壊されて、当地の北方約200メートルの都川に新しくかけられた橋にその名を残した。
今朝は千葉の君待橋。
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) June 14, 2021
千葉胤頼が源頼朝を出迎えた史跡跡。
ここで頼朝パイセンを待ちます。
来ないけど😂#朝活 #千葉 #鎌倉 #ワーケーション pic.twitter.com/U88F21v1uS
君町橋(碑)の場所
君町橋の石碑は、実際の君町橋からちょっと離れた内陸(交差点の近く)にあります。
小さい緑地に大きな石がドンと置かれている場所です。説明板等は建っていません。
石碑の後ろに説明が書かれています。
お茶の水
源頼朝は治承4年(1180)相模国石橋山(神奈川県小田原市)の合戦で敗れた後、舟で安房国にわたり、千葉氏を始めとする房総の武士団に支えられて勢力を盛り返し鎌倉に入りました。
その道中、千葉常胤の本拠地に足を止めた源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げたというものです。
平安時代初期には国内でお茶の栽培が始まっていますが、まだ一般に普及していなかったため、後の時代に作られた話の可能性もあります。
今はもう水が出ておらず、枯れた井戸だけが残っています。
お茶の水の場所
千葉氏の拠点があったと言われる「猪鼻城跡」の麓にあります。
白幡神社(しらはたじんじゃ)
この辺は江戸時代以前までは結城野(ゆうきの)と呼ばれていました。
治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、再挙を図り千葉城主「千葉常胤」を頼って千葉を通過するとき、結城稲荷の境内に源氏の白旗を立て、その1旒を奉納したことより白旗(幡)大明神と呼ばれるようになった
白旗じゃなく白幡っていうところに注意。
源頼朝ゆかりの神社なので、神紋が「ササリンドウ」になっています。
白幡神社の場所
上記の「君待橋」と近い場所にありますから、連続して通った可能性がありますね。伝説ですが・・・。
千葉常胤(千葉宗家)ゆかりの地
千葉市内(近郊)にある千葉常胤(千葉宗家)ゆかりの地は下記の地図に纏めています。