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和田(次郎)義茂(わだ よしもち)
生没年不詳。和田義盛の弟。
三浦一族としては、弓の名手だったこともあり、佐原義連と一緒に家子に選抜されています。
吾妻鏡には、1182年以降に登場しないこともあり早くに亡くなった可能性も。
和田義茂の簡易年表
年 | 月 | 出来事 |
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治承4(1180)年 | 8月 | 頼朝の挙兵 由比ガ浜で遭遇した畠山勢に討ちかかり小坪合戦、衣笠合戦に |
三浦義澄、三浦義連、和田義盛らが伊豆を目指して三浦を出発 | ||
養和元(1181)年 | 4月 | 頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる |
9月 | 頼朝に足利俊綱討伐を命じられ下野国へ出陣 | |
寿永元(1182)年 | 6月 | 由比ヶ浜の犬追物に射手として参加(和田義茂最後の記録) |
健保元(1213)年 | 5月 | 和田合戦 和田義茂の子「高井(和田)重茂」が朝夷名義秀と戦い討死。 |
時期は不明ですが、南深沢郷津村を本貫の地に、また、奥山荘(越後国蒲原郡|新潟県胎内市)の地頭に任じられています。
三浦義明を死に導いた小坪合戦
治承4(1180)年、頼朝の挙兵に合流するつもりだった三浦一族は、雨のために酒匂川で足止めをくらってしまい、かつ頼朝の石橋山の戦いでの敗戦情報もあり、三浦へ引き返していた。
その時に、由比ガ浜で平家側だった畠山勢と遭遇。
三浦氏と畠山氏は姻戚関係だったため(畠山重忠の母が三浦義明の娘)合戦は形だけの約束だったが、それを知らない和田義茂は、畠山勢に攻められていると勘違いして、杉山城から攻撃して畠山勢に痛手を負わせてしまう。
和田義茂が攻め込んだ経路としては、杉山城から巡礼古道を通り、名越切通経由で小坪に至り、畠山勢と合戦になった(小坪合戦)と考えられます。
そのため、一旦、本拠に引き返した畠山勢は、河越重頼、江戸重長を誘い、衣笠城に攻め込み、三浦義明は一族を逃がして自害する。
吾妻鏡の記録から
下野国の足利俊綱討伐へ
※半月近く下野国へ行ってましたが、俊綱は部下の謀反により死去。謀反人の対応に焦点が変わり、結果戦わずして討伐は終了しました。
養和元(1181)年 9月7日
下野国にいた藤原秀衡の流れを汲む藤原俊綱(足利太郎)は、昔の恩から平家方に属し、さらに子の忠綱は先生義広に同意していたため、頼朝の味方には成らなかった。
そのため、和田義茂に追討を命じた。三浦義連、葛西清重、宇佐美実政が副えられ、出陣した。
その間、藤原俊綱の第一の腹心だった「桐生六郎」が、頼朝への忠節を表すため主人の首を切り、持参して鎌倉へやってきた。首が確かめられ、桐生六郎は梶原景時を通して御家人してほしいと頼朝に頼んだが、譜第の主人を誅するとは全く賞賛に値しないと。
景時は桐生六郎の首を斬り、俊綱の横に並べて晒した。
同年 9月28日
和田次郎義茂が下野国から鎌倉へ帰参し、この件は終了した。
和田合戦では北条方に
健保元(1213)年 5月2日
和田合戦の日の記録には、高井重茂(和田義茂の子で義盛の甥)が朝比奈義秀と戦った。とあり、続きには、
両人は組み合ってともに落馬し、ついに重茂は討たれたが、義秀を馬から落としたのは彼一人であり、一族(和田氏)の謀叛の企てに与せず、一人御所に参上して命を落としたので、感嘆しない者はいなかった。と。
上記のように書かれています。
和田義盛に味方した御家人の名前に和田義茂はおらず、子の高井重茂は一人で御所に参上ということなので、すでに義茂は無くなっていたのかもしれません。
この功績で、生き残った義茂の子孫「和田三浦氏」は奥山荘を安堵されます。
頼朝の八幡宮参拝へお供
寿永元(1182)年12月7日
夜が更けて人々が寝静まった後、頼朝が鶴岡八幡宮寺にお参りになった。
お供した人々は、佐々木盛綱、和田義茂等のほかにおらず、拝殿で念誦された。
これが、和田義茂が確実に存命している記録の最後です。
和田義茂周辺の系図
和田義茂は、三浦一族の一人です。
頼朝の挙兵時には、下記系図に出ている人物の多くが、三浦から伊豆方面に向かっています。
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三浦義明(1092)
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杉本義宗(1126) 三浦義澄(1127) 佐原義連 (?)
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和田義盛(1147) 和田義茂(?) 三浦義村(1168)
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朝比奈義秀(1176) 高井重茂
和田氏ゆかりの地
杉本城(現杉本寺|鎌倉市)
和田義茂の父「杉本義宗」が本拠とした杉本城を継いだのは、次男の義茂のようです。
江上館跡(新潟県胎内市)
三浦和田一族の惣領家「中条氏」の居館跡