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若狭局(わかさのつぼね)
生年不詳-1203
比企尼の猶子で武蔵の御家人「比企能員」の娘にして、鎌倉幕府2代将軍「源頼家」の愛妾(または妻)。
頼家の嫡男「一幡」を産むも、比企能員の乱で比企一族は北条方に滅亡させられた。
若狭の局、妙本寺では讃岐局とも伝わります
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山谷花純さんが演じられます。
若狭局の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生年不詳 | 0 | 誕生(父:比企能員) |
建久9(1198)年 | 一幡(頼家の長子)を産む | |
建仁3(1203)年 | 比企能員の乱 ・火を放った屋敷にて一幡と若狭局は焼死(吾妻鏡) ・一幡を抱いて逃げるも、北条義時配下に誅殺(愚管抄) ・故郷の武蔵国大谷に逃げ延び余生を過ごす(当地の伝承) | |
若狭局のその後は諸説あり |
比企能員の乱
頼家から一幡と実朝(千幡)への相続問題からみで、比企能員が若狭局を通じて頼家に北条時政を追討すべきと訴えたこと、北条政子が聞いてしまったことから比企能員の乱が勃発。
比企一族は逆に北条方に滅ぼされてしまいます。
建仁3(1203)年9月2日
謀反なので北条政子の命令により追討軍が派遣された。
北条義時、北条泰時、平賀朝雅、三浦義村、和田義盛、加藤景廉、小山朝政、結城朝光、榛谷重朝、畠山重忠、仁田忠常らが小御所へ襲来。
戦いは14:30(未三刻)~16:00(申の刻)頃まで約1時間半続いた。
比企一族は追討軍の勢いに対抗できず館に火を放ち、それぞれ一幡の前で自害した。
一幡もこの災いから逃れることはできなかった。
吾妻鏡では上記のような内容であり、若狭局が亡くなったとはっきりは書かれていません。
若狭局その後・・・
比企能員の乱の後、若狭局は生まれ故郷の比企郡(東松山市)に戻り、余生を過ごしたとも伝わります。
若狭局周辺の系図
比企尼
|
源頼朝 比企能員
| ┣-----┬
源頼家=====若狭局 能本
|
一幡
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
源頼家には、一幡の他に、公暁、栄実、禅暁、竹御所がいます。
公暁、竹御所については若狭局の子ではないか?という説もあるようです。
子 一幡君
1198-1203
源頼家の男、母は比企能員の娘(若狭局)
父である頼家が重病になり、相続をめぐって比企氏と北条氏が対立し、比企氏の乱が勃発。
比企能員が北条時政方に殺害され、比企氏の一族らが、一幡の住む子御所に立て籠り合戦。
劣勢のため館に火を放ち焼死したとされる。

若狭局ゆかりの地
妙本寺(鎌倉市)
鎌倉市にある妙本寺には比企能員の乱の時に、池(または井戸)に身を投じ亡くなった若狭局。
蛇に巻き付かれたような苦しみから、約50年後に北条政村の娘に取憑き、日蓮によって成仏させられたと伝わります。


宗悟寺(東松山市)
武蔵国比企郡(現東松山市)の大谷地区にある宗悟寺には、若狭局が持ってきたと伝わる源頼家公のご位牌が安置。
また、夫との別れによって、蛇に巻き付かれたような苦しみから逃れるために祈願したとする「蛇苦止観音」も祀られています。


串引き沼(東松山市)
夫の源頼家からもらった鎌倉彫の櫛を大切に持っていた若狭局。
深い悲しみを建つために、祖母の比企尼に勧められて、沼に櫛を投げ込んだことから串引き沼と呼んでいるようです。


梅ヶ谷
秋葉神社の西側に広がるのが、若狭の局が隠棲し余生を送ったと言われる梅が谷

