足利氏には、源姓足利氏と藤姓足利氏があります。
これは血筋が、源氏か藤原氏かを区別するためです。
目次
足利義兼(あしかが よしかね)
1154-1199。源姓足利氏。足利宗家2代当主。
頼朝より7~8才年下になり、北条時政の娘を妻に迎えます。足利三郎義兼とも。
足利義兼の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
久寿元(1154)年 | 0 | 誕生 |
治承4(1180)年 | 27 | 頼朝挙兵後、比較的早い時期から従軍 |
元暦元(1184)年 | 31 | 木曽義高残党の討伐で戦功を挙げる |
源範頼軍に属し平氏追討。上総国国司に推挙 | ||
文治5(1189)年 | 36 | 奥州合戦に従軍 |
建久元(1190)年 | 37 | 奥州藤原氏残党(大河兼任の乱)を追討使として平定 |
建久6(1195)年 | 42 | 東大寺で出家 |
正治元(1199)年 | 46 | 東大寺にて死去 |
吾妻鏡より
北条氏との婚姻
治承5(1181)年 2月1日
足利三郎義兼(当時27,8才)が北条時政の息女(北条時子)を娶った。同じく、加賀美次郎長清が上総広常の婿となった。
両人とも、人柄が穏やかで忠貞(良く仕え節操を守る)の志を持っており、源頼朝も目をかけていたため、特別の命令によって、この運びとなった。
足利氏の系図
足利義兼は、頼朝と同じ源義家を祖に持ちます。
義親は庶長子。義国は三郎と呼ばれていたことから三男でしょう。
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源義家(河内源氏)
├--------┬
義親(?) 義国(1091)
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為義(1096) 足利義康(1127)
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義朝(1123) 義兼(1154)
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頼朝(1147) 義氏(1189)
足利義兼周辺の系図
足利義兼の周辺は図にしてみると、頼朝と相婿という更に強い関係で結ばれいたことがわかります。
藤原季範(1090)
┌----┼-----------┬
| 藤原範忠 由良御前======源義朝(1123)
| (養女)┌--┴ |
足利義康=======藤原範忠の娘 北条時政(1138) |
| ┌------┼------┐ |
足利義兼====北条時政娘 北条義時 北条政子====源頼朝(1147)
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足利義氏
頼朝にとって、足利義兼は信頼できる親族でありながら、御家人ではなく源家の血筋なので下手をすればライバルになりうる人物。
義兼もそれを分かってか、頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたのを見て、出家したと言われています。そのおかげで御家人闘争にも巻き込まれずに、鎌倉幕府の後半「足利尊氏」に繋がります。
足利氏ゆかりの地(源姓足利氏)
鑁阿寺(ばんなじ)
鑁阿寺は、建久七(1197)年、足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。
山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。
元々は足利氏の館です。日本百名城。


以降は、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
足利学校(国指定史跡)
足利学校は、日本で最も古い学校として知られています。
足利学校の創建についていろんな説がありますが、その一つが鎌倉時代の「足利義兼」説です。


足利公方邸(石碑)
鎌倉にある、六浦方面へ向かう金沢街道。
その道沿いに足利義兼の代から、足利館として200年もの間子孫達が住んでいた場所に石碑が建っています。
浄妙寺
鎌倉市浄明寺にある臨済宗のお寺で鎌倉五山第5位の「浄妙寺」
開山が足利義兼です。


浄明寺の境内の中には、枯山水庭園を眺めながら、抹茶・和菓子を頂ける喜泉庵。
境内の上部には、洋風レストラン&イングリッシュガーデンで有名な石窯ガーデンテラスがあります。