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木曽義仲追討(治承・寿永の乱|源平合戦)
京都から平家を追い払い、源氏の中で京へ一番乗りを果たした木曽義仲軍。
しかし木曽の兵が町の人にいろいろ乱暴し、今日のしきたりを知らず無礼な義仲の評判は良くなく、後白河法皇も心配されて、義仲に自兵を取り締まるように注意。
しかし、法皇の言葉を聞き入れず、御所に火をつけてしまい(法住寺合戦)、遂に法皇は源頼朝に使者を送り「義仲を討て」と命じました。
ここに、木曽義仲討伐のために、鎌倉から源範頼・義経軍が派遣されることになりました。
寿永3年(1184) 1月20日
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 22, 2021
源義経軍が木曽義仲軍を破った宇治川の合戦⚔️
有名な梶原景季と佐々木高綱の先陣争い(先陣は高綱)#宇治川 #京都 #源平合戦 pic.twitter.com/oeAwUDNN3C
木曽義仲追討戦の経過
年代 | 日付 | 出来事 |
---|---|---|
寿永2(1183)年 | 11月19日 | 木曽義仲が軍事クーデター 法住寺殿を攻め、後白河法皇と後鳥羽天皇を六条西洞院に幽閉 |
寿永3(1184)年 | 1月20日 | 頼朝は近江にまで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた |
源範頼軍(大手軍)30,000騎が瀬田で攻撃 今井兼平(義仲四天王)800余騎が守るも突破される | ||
源義経軍(搦手軍)25,000騎が宇治川で攻撃(宇治川の戦い) 梶原景季、佐々木高綱の先陣争いで宇治川を突破 | ||
源範頼軍と源義経軍が京都に到着し、後白河法皇を確保 | ||
木曽義仲と今井兼平が大津の内での浜で合流 | ||
1月20日 | 粟津の戦い 巴御前は最後の奉公と敵将恩田八郎の首をねじきり離脱 木曽義仲は馬の脚が深田にはまり、三浦の石田為久に討たれる 今井兼平は、義仲が討ち取られたのを見て自害 | |
1月27日 | 範頼・義経らの飛脚が鎌倉に到着。義仲討伐を報告。 |
義仲討伐に関する吾妻鏡の記載
吾妻鏡には、正月20日の条にあっさりとした内容が記載されています。。。
元暦元(1184)年正月20日
源範頼と源義経が、頼朝の御使として、数万騎を率いて入京した。
範頼は瀬田から入京、義経は宇治路から入京した。
木曽義仲は、源義弘、今井兼平をはじめとする武士達を瀬田・宇治の両方に派遣させたが全て敗北した。
範頼、義経は、河越重頼、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季らを率いて、六条殿に参上、後白河法皇の御所を警護申し上げた。
その間、一条忠頼以下は方々で戦い、近江国粟津付近で相模国の住人「石田次郎」により義仲は誅殺された。
木曽義高(清水冠者)の誅殺
元暦元年(1184)4月21日
「木曽義仲」が勅勘を蒙り誅されていたので、その嫡男で頼朝の聟(大姫の婚約者)だった木曽義高は罪を逃れられないから、誅殺すべきと、頼朝は心に決められた。
それに気づいた女房や大姫は吉高を鎌倉から脱出させたため、頼朝は非常に怒ってしまわれた。
元暦元年(1184)4月26日
入間河原において、清水冠者(木曽義高)を誅したことが報告された。
大姫は、嘆き悲しみ飲食を断たれ、精神的に病気がちになった。
木曽義仲追討戦ゆかりの地
法住寺殿跡(法住寺合戦)
法住寺殿は後白河上皇が院政を実施した政庁。
この「法住寺殿」址碑は、現在「蓮華王院(三十三間堂)」の境内に建っています。
寿永2(1183)年11月、木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。


瀬田の唐橋(瀬田の戦い)
木曽義仲の討伐の為、鎌倉から派遣された源範頼、義経軍。
瀬田川の周辺では、源範頼率いる大手軍と木曽義仲の乳兄弟で家臣の今井兼平率いる軍勢が戦います。
結果は、範頼軍の勝利で、800余騎いた今井兼平の軍勢はわずか50騎ほどに。
今井兼平は、木曽義仲公の身を案じて京都の方へ向かった途中、大津付近で義仲たちと再会します。


宇治川先陣の碑(宇治川の戦い)
宇治川には、搦手軍の大将「源義経」率いる軍勢が南岸に到着。
義仲軍は宇治川を渡らせまいと、橋を壊し川底に杭をうって、綱を張り巡らし、一方の岸を堅く守りました。


この時期の宇治川は、山々の雪や谷の氷がとけて水かさがまし、流れは物凄い勢い。
義経が、配下の武士に「われと思わんものは先陣いたせ!」と叫び戦いが始まると、川に馬を乗り入れた二騎。
「宇治川の先陣は佐々木四郎高綱なるぞ!」と名乗りがあがると、義仲兵は勢いにおされ敗走したと。
義仲寺(木曽義仲公御墓所)
古くは粟津ヶ原と言った場所にあるのが義仲寺(ぎちゅうじ)、朝日将軍木曽義仲公の墓所です。
JR膳所駅から歩いて10分ほど。今は住宅街の中にあります。
戦国時代には荒廃したが、近江国守佐々木が、当寺を再建し寺領を進める。石山寺に属していた。


今井兼平の墓
木曽義仲の腹心の武将。乳母で義仲四天王の一人。(享年33歳)
兄が樋口兼光、弟が今井兼光、妹が巴御前。信濃国今井の地を領して、今井と名乗った。


木曽殿が討ち取られたことを知った今井兼平は、「自害の手本を示す!」と叫び、太刀の切っ先を口にくわえて、馬上からうつぶせになって地面に飛び降り、自らの刀につらぬかれて、みごとな死をとげた。
周りにいた敵兵も、しばし息をのんで、みごとな自決ぶりを見つめていたという。