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愛甲(三郎)季隆(あいこう すえたか)
生誕不詳(1150年?)-1213。横山党。
相模国愛甲郡愛甲荘(現、厚木市愛甲)の御家人。
愛甲三郎館跡を見に愛甲石田まで。
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) August 22, 2021
あまり知られてないけど、吾妻鏡では弓系の行事には、下河辺行平と共にほぼ顔を出すほどの弓の名手だ。
以後、お見知りおきを😎#愛甲季隆 #愛甲石田 #史跡 pic.twitter.com/EJQAAfZk7L
愛甲季隆の簡易年表
義仲追討や奥州合戦などには参加していませんが、御家人中屈指の弓の名人として、下河辺行平と同じくらい、殆どの儀式や弓技比べの行事に顔を出す人物です。
時期 | 年令 | 出来事 |
---|---|---|
久安6(1150)年 | 誕生? | |
治承4(1180)年 | 頼朝の新造の大倉亭での弓始めの儀で射手を務める | |
文治元(1185)年 | 勝長寿院落慶供養で、将軍出行の際の調度懸 (弓矢を持って供奉する役)を務める | |
建久4(1193)年 | 源頼家が愛甲季隆の指導によって、一頭の鹿をみごと射止める 曽我兄弟の仇討ちで負傷する | |
〃 | 小山朝政亭に弓馬の名人が集まり、故実口伝の論じ合わせに参加 | |
元久2(1205)年 | 畠山重忠の乱 二俣川の戦いで畠山重忠に矢を命中させて首を取った | |
建暦3(1215)年 | 和田合戦 和田義盛方に与し敗北、兄らと共に一族討ち死に |
愛甲季隆は弓矢の名手で、戦場では活躍間違いなしと思うのですが、平家追討、奥州征伐など大きな合戦には全く参加していません。そして京への上洛にも。
これは「相模のもののふたち」の著者である永井路子さんは、最後の持ち駒として、合戦の時などに手薄になる鎌倉(東国)に留め置かれたのではと推測されています。納得です。
吾妻鏡から詳しく
愛甲三郎はとにかく、弓矢関係の行事に良く名を連ねます。
新造の御亭における御弓始め
治承4(1180)年12月20日
頼朝の新居において、三浦義澄が饗応し、その後御弓始めが行われた。
射手
一番 下河辺行平 愛甲三郎季隆
二番 橘太公忠 橘次公成
三番 和田義盛 工藤行光
金洗沢での牛追物
寿永元(1182)年 4月5日
金洗沢(七里ヶ浜)の辺りで牛追物が行われた。
下河辺庄司、和田小太郎、小山田三郎、愛甲三郎らは、射当てた回数が多かったため、それぞれ、色皮、紺絹等を頂いた。
頼朝の伊豆訪問にお供する
元暦元(1184)年 3月18日
源頼朝が、野出の鹿を見る為に、伊豆国に向けて出発。
下河辺行平、下河辺政義、新田忠常、愛甲季隆、戸崎国延らを、射手と決められた。
同年 4月1日
下河辺行平、下河辺政義、新田忠常、愛甲季隆、戸崎国延が御前に呼ばれ、鹿皮をそれぞれ一枚ずつ渡した。
先日の、伊豆国で仕留めた鹿だという。
文治4年の的始め
文治4(1188)年 正月6日
上総介(足利)義兼が饗応し、酒宴の最中に的始めがあった。
横山党と愛甲氏の系図
横山党は武蔵七党の一つ。
武蔵国多摩郡横山荘(現、東京都八王子市)を中心に、武蔵国、相模国北部に割拠した同族的武士団。
横山義孝
┣------┓
横山資孝 義兼
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| [海老名氏]
山口季兼
┣-------┳--------┳
愛甲季隆 愛甲義久(兄) 山口?
| ┣----┓
季通 広基 義考
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
系図には書けませんでしたが、愛甲季隆と和田義盛はどうやら親戚関係があるようです。
これで、和田合戦で愛甲氏が和田方に着いた理由がわかりますね。
横山党ゆかりの地
愛甲三郎季隆の史跡は、小田急「愛甲石田駅」周辺にあります。
一番遠い、宝積寺まで約1.7km、歩いて片道15分くらいでしょうか。近くには路線バスも通っています。
愛甲石田駅の北口バスロータリー脇にある案内板です。
ここでようやく「愛甲三郎」のワードを見ることが出来ます。もっとアピールしても良いのに・・・。
円光寺
▶ 厚木市愛甲東2丁目4-1
臨済宗建長寺派のお寺。愛甲氏の本拠があった場所と伝わる。
愛甲石田駅の南側から歩いて5分程度の場所にあるお寺です。
江戸時代に徳川幕府の寄進か何かを受けたのでしょうか?徳川家の三つ葉葵が目立つ山門が物凄く立派に建っています。
境内にあった小さな梵鐘には「三つ鱗」も見えました。
愛甲三郎館跡(神明神社)
▶ 厚木市愛甲西3-4-8
小田急「愛甲石田」駅からちょっと離れた場所にある「愛甲三郎館跡」。
神明神社の境内にありますが、神明神社も小さくてgoogleMAPにも出てきにくいので「上愛甲自治会館(愛甲西3-4-8)で探すと良いかと思います。
愛甲三郎館跡は高台になっていて、北側の低地には「宝積寺」が建っています。
宝積寺
▶ 厚木市愛甲西3丁目6-24
愛甲石田駅から愛甲橋(下に高速道路が走っている)を渡り、愛甲西交差点を右折。
長い下り坂を進むと左手側に宝積寺が見えてきます。
曹洞宗、山号は「愛甲山」
由来が書かかれた石碑は、本堂の左奥にある墓地の中(歴代住職のお墓が並んでいる場所)に設置されています。元々は、愛甲三郎季隆公が「香華院」として建てた旧跡だと書かれています。
愛甲三郎季隆供養塔
宝積寺境内の中にある墓地に、伝愛甲三郎の供養塔と言われるものが2基あります。
墓地の入口にありますので、すぐに分かるかと思います。