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千葉(新介)胤正(ちば たねまさ)
1141?~1203?。父:千葉常胤の長男。母:秩父重弘の娘。千葉氏第四代当主。
千葉氏本流の家督を継ぎました。
千葉胤正の簡易年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
永治元(1141)年 | 0 | 誕生 |
治承4(1180)年 | 40 | 頼朝挙兵に際し、父常胤と共に頼朝に従って参戦 |
養和元(1181)年 | 41 | 頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる |
文治3(1187)年 | 47 | 畠山重忠を囚人として預かる |
文治5(1189)年 | 49 | 奥州合戦に参戦し武功を挙げる |
建久元(1190)年 | 50 | 頼朝上洛時に、布衣侍7人の内に選ばれ参院の供奉をする |
建仁3(1203)年 | 63 | 死去 |
イメージとしては目立つ感じではないですけど、着実にやることやっている人物ですね。
頼朝の家子にも選ばれています。
吾妻鏡より
吾妻鏡から、千葉胤正とその他御家人との絡みがある内容を中心にピックアップしてみます。
畠山重忠を囚人として預かる
ここでは畠山重忠の武士の鏡のような美談で終わっていますが、梶原景時が畠山重忠が謀反を起こしていると讒言していること、それに対して結城朝光が反論していること、梶原景時の乱と同じような状況を注目してもよさそうです。
文治3(1187)9月27日
畠山重忠の代官が、伊勢神宮領地を不法に侵した悪行によって、所領四か所を没収され、千葉新介胤正に召し預けられた。
同年 10月 4日
胤正が参上して申すには
「畠山重忠が召し籠められて、すでに7日目。その間、寝食ともに断っていて、ずっと言葉も発しません、顔色もだんだん悪くなっています。早くご赦免下さい。」
頼朝は頷き重忠を許した。胤正は走って帰り、重忠を連れて参上した。そして武蔵国に下向した。
同年 10月15日
昨夜、梶原平三景時が内々に「重忠が武蔵国の菅谷館に引きこもり、反逆を起こそうとしている情報があります。重科を起こさなかったのに拘束されたことは大功を破棄されたようなものだと」
これにより、小山朝政、下河辺行平、小山朝光、三浦義澄、和田義盛らの勇士を召し集めた。
朝光「重忠は生まれつき廉直で、決して謀反を企むような者ではありません。謀叛の事はきっと偽り、使者を遣わされてその意をお尋ねくださいと」と他の者も同じ意見だった。
頼朝は「(下河辺)行平は弓馬の友、早く彼のもとに赴いてその所存を尋問しなさい。異心が無ければ召し連れてくるように」と命じた。
奥州征伐で葛西清重を乞う
ここでは千葉胤正(1141?-)が葛西清重(1161?-)を認めていることが分かります。
親子ほど離れた二人の共通点はなんでしょうか?
建久元(1190)1月13日
奥州の凶徒を鎮めるため、(上総介)足利義兼が追討使、千葉新介胤正が一方の大将軍を承る。
ここで申すには「葛西三郎清重は特に優れた勇士です。先の上総国ではともに合戦しました。今度もまた共に戦うようにとよくよくお命じ下さい」と。
頼朝、仙洞御所訪問に際しての行列
建久元(1190)12月 1日
右大将家(源頼朝)のお拝賀。
申の一刻(15:00)に六条大路の北、西洞院大路の西にある仙洞(後白河院御所)に参られた。
居飼→舎人→一員→前駈の傘持→前駈十人 等々
次に侍7人(布衣)
三浦介義澄
千葉新介胤正
左衛門尉(工藤)祐経
前右馬允(足立)遠元
前左衛門尉(後藤)基清
葛西三郎清重(1161-1238)
八田太郎朝重
息子「胤成」が亡くなる(吾妻鏡に氏名表記)
健保6(1218)4月10日
7日、病気がとても苦しく意識が朦朧としていた、千葉介成胤は、10日午の刻に死去した。
千葉介胤正の子息である。
千葉胤正周辺の系図
父親の常胤の妻が秩父氏の女性なので、千葉氏と秩父氏が親戚関係になっています。
千葉常重 秩父広重
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千葉常胤=====秩父広重の娘 畠山重能 小山田有重
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千葉胤正 (相馬)師常 (武石)胤盛 (大須賀)胤信 (国分)胤通 (東)胤頼 日胤
| (園城寺僧)
千葉成胤
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
つまり、千葉胤正は、畠山重忠、稲毛重成、榛谷重朝と従兄弟の関係になりますね。
これら秩父氏の従兄弟たちに比べて、胤正はちょっと影が薄い印象があります・・・。