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後白河天皇(雅仁親王)
1127-1192。
鳥羽天皇の第四皇子として生まれたため、皇位継承とは無縁で気楽な立場で、大好きな今様に明け暮れる生活を送るも、父鳥羽天皇の死去をきっかけに、政争に巻き込まれていく。
12歳で元服、29歳で天皇に即位し、32歳に上皇となり院政を開始、43歳で仏門に入り法皇となる。
院近臣、平氏、源氏などと強調し、時には対立しながら30年以上日本のトップに君臨し続けた人物です。
保元3年8月
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 24, 2021
後白河天皇は二条天皇に譲位して上皇となり、法住寺殿で院政を行ったと。頼朝に初めて対面した翌年に崩御されました🙏
鎌倉殿の13人では西田敏行さんが演じられますね!#後白河上皇 #京都 #法住寺跡 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/gYjNg2b0eT
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、西田敏行さんが演じられます。
NHKの大河ドラマ「平清盛」では、松田翔太さんが演じられました。
後白河天皇の簡易年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
大治2(1127)年 | 0 | 第四皇子として誕生(父:鳥羽天皇、母:待賢門院) |
保延5(1139)年 | 12 | 元服して二品に叙す |
久寿2(1155)年 | 29 | 天皇に即位(守仁親王が即位するまでの中継ぎとして) |
保元元(1156)年 | 30 | 保元の乱 後白河天皇方の勝利。崇徳上皇は讃岐へ配流。 |
保元3(1158)年 | 32 | 守仁(二条天皇)に譲位し、太上天皇(上皇)に |
平治元(1159)年 | 33 | 平治の乱 藤原信頼・源義朝ら、後白河上皇の三条殿を襲撃。 |
永暦元(1160)年 | 34 | 焼失した三条殿に代わる法住寺殿の造営に取り掛かる |
嘉応元(1169)年 | 43 | 仏門に入り法皇となる |
承安4(1174)年 | 48 | 平滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発 |
安元3(1177)年 | 51 | 鹿ヶ谷の陰謀 平家打倒の謀議が露見 |
治承3(1179)年 | 53 | 平清盛、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。「梁塵秘抄」成立 |
治承4(1180)年 | 54 | 以仁王(後白河法皇の第三皇子)、平氏追討の令旨を出す |
寿永2(1183)年 | 57 | 法住寺合戦 源義仲(木曽義仲)、後白河法皇の法住寺殿を襲撃 |
建久元(1190)年 | 65 | 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面 |
建久2(1191)年 | 66 | 六条殿(長講堂)において崩御 |
後白河天皇周辺の系図
皇族の勢力争いを把握するには、天皇だけの系図ではよくわかりません。
母が誰なのか?がとても大切です。
鳥羽天皇
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崇徳天皇 後白河天皇 近衛天皇
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後白河天皇
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二条天皇 以仁王 高倉天皇
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六条天皇 安徳天皇 後鳥羽天皇
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
鳥羽天皇の子は下記系図以外に沢山いますが、重要な妻は待賢門院(中宮)と美福門院(皇后)です。
後妻の方が大切(若いし現役妻)にされるので、美福門院が産んだ「近衛天皇(体仁親王)」を天皇にしようと動き、永治元(1141)年に近衛天皇が即位。鳥羽上皇に強引に迫られ崇徳天皇はしぶしぶ上皇となります。
※近衛天皇即位後の系図
待賢門院璋子=====鳥羽法皇=====美福門院得子
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崇徳上皇(1) 後白河天皇(4) 近衛天皇(9) 八条院(暲子内親王)
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
しかし、近衛天皇が久寿2(1155)年、17才で死去。
次の天皇は誰にするか?で各人の思惑が交錯していきます。
待賢門院璋子=====鳥羽法皇=====美福門院得子
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崇徳上皇(1) 後白河天皇(4) 近衛天皇(9) 八条院(暲子内親王) 守仁親王(養子) 重仁親王(養子)
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重仁親王 二条天皇(守仁親王) | |
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なぜ崇徳天皇と戦った?
なぜ平家と仲が悪くなったのか?
後白河天皇ゆかりの地
高松新明神社(高松殿址)
平安時代中期の頃からあった源高明の邸宅で焼亡した後、新造し、久安2(1146)年に近衛天皇の内裏となる。久安2(1155)年に、後白河天皇がココで即位し、保元2(1157)まで内裏(高松内裏)となった。
1156年 保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集した。


法住寺殿(後白河上皇院政庁)
法住寺殿は、保元3(1158)年8月、皇子の二条天皇に譲位して上皇になった後白河院が、約30年にわたり院政を行った政庁。
境内には、新熊野神社・新日吉神宮・蓮華王院(三十三間堂)・法住寺跡があり、後に、後白河陵天皇法住寺陵が作られた。
長講堂
正式名称は「法華長講阿弥陀三昧堂」
寿永2(1183)年に後白河法皇が晩年を過ごした院御所「六条殿(六条西洞院)」内に建立した持仏堂が始まり。
後白河法皇は莫大な寺領を長講堂に寄進して、その経済的基盤を築き没する直前に、寵愛していた丹後局(高階栄子)の子「覲子内親王(宣陽門院|後白河天皇第6皇女)」に譲った。


覲子(きんし)内親王は、建久6(1195)年に上洛した源頼朝・北条政子夫婦から拝謁を求められるなど、権勢を誇った。