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榛谷四郎重朝(はんがや しげとも)
吾妻鏡では、榛谷四郎重朝と表記されることが多いですが、たまに「小山田四郎重朝」や「稲毛四郎重朝」「榛谷四郎」という表記も出てきます。
父、兄の名前もしっかり把握していないと、全くの他人と思ってしまいますから、注意が必要です。
榛谷重朝の簡易年表
榛谷重朝は、養和元年の頼朝の家子に選ばれたのを最初に、主に「弓矢関係」「儀礼関係」で吾妻鏡に定期的に名前が出てきます。
正月の御弓始では一番射手を務めることも多々あるほどの弓の達人です。
年代 | 年齢 | 出来事 |
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生誕不詳 | 0 | 誕生 |
治承4年(1180年) | 頼朝に帰伏して御家人となる(秩父一族) | |
養和元年(1181年) | 頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる | |
御弓始、牛追物等で度々射手をつとめる | ||
元暦元年(1184年) | 一ノ谷の戦いに参加 | |
文治5年(1189年) | 奥州合戦に従軍 | |
正治元年(1199年) | 梶原景時の変に参加 | |
建仁3年(1203年) | 比企能員の乱で比企一族討伐軍として参加 | |
元久2年(1205年) | 従兄弟「畠山重忠」の誅殺に加担したと咎めを受け、三浦義村に討たれる 榛谷氏滅亡 |
同じく弓の達人だった「下河辺行平」も「榛谷重朝」を腕を競うのに相応しい相手と思っていたり、上洛時に予定されていた摂津住吉社での流鏑馬奉納に参加するメンバー18名の中にも入っています。
この18名のメンバーで有名な御家人は、下河辺行平、小山朝政、結城朝光、和田義盛、榛谷重朝、愛甲季隆、などなどです。
榛谷重朝周辺の系図
榛谷重朝を中心とした系図です。畠山重忠とは従兄弟の関係ということが分かります。
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秩父重弘
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畠山重能(?) 小山田有重(?)
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畠山重忠(1164) 稲毛重成(?) 榛谷重朝(?)
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畠山重保 重季 秀重 実重
更に遡ると秩父一族ですから、葛西氏、江戸氏、河越氏などとも繋がります。
榛谷御厨の範囲
新編武蔵国風土記稿などによれば、現在の横浜市旭区から保土ヶ谷区、都筑区にかけての一帯が「榛谷御厨」と考えてよさそうです。
横浜市旭区は「榛谷御厨」の場所にも拘わらず、榛谷重朝より、畠山重忠終焉の地「二俣川古戦場」という魅力あるテーマを餌にして埼玉県深谷の「畠山重忠」を有名人にしてしまっています。
横浜市旭区には「半ヶ谷」橋、「半ヶ谷」バス停などに、名前が残っていますが、かなり少ない方だと思います。これは畠山重忠の乱後に榛谷氏が滅亡してしまい、榛谷氏自体の歴史が少ないことも影響してそうです。
小山田氏ゆかりの地
父「小山田有重」、兄「稲毛重成」に関連する場所も一緒に、小山田氏ゆかりの地としてgoogleMAPに纏めています。
神明社(横浜市保土ヶ谷区)
神明社御由緒には、平安時代以前は保土ヶ谷の場所を「榛谷(はんがや)」と呼んでいたそうです。
平安時代の末期に伊勢神宮に寄進され「榛谷御厨」と呼ばれるようになりました。
平安時代末期なので、榛谷重朝か、その父である小山田有重が寄進したのかもしれません。
保土ヶ谷は「榛谷(はんがや)」が訛って呼ばれるようになったと言われているそうです。
鎌倉殿の御家人ゆかり地巡り
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) July 18, 2021
多摩区の枡形城跡
畠山重忠の従兄弟で「稲毛三郎重成」ゆかり
稲毛って言う地名が無いからピンとこないけど、稲城とか稲田、稲生で連想しよう😊#鎌倉 #多摩 #稲毛重成 pic.twitter.com/MEpP8rPAWJ