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畠山重保(はたけやま しげやす)
生年不詳-1205
畠山重忠と北条時政の娘の子。通称は六郎。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重保役を「杉田雷麟(すぎたらいる)」さんが演じられます
畠山重保の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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生誕不詳 | 0 | 誕生(父:畠山重忠、母:北条時政の娘) |
元久元(1204)年 | 源実朝の御台所をお迎えに京へ向かう 平賀朝雅と主演の席で騒動を起こしたとの噂 | |
元久2(1205)年 | 平賀朝雅と確執により謀反を疑われる →由比ガ浜に呼び出され、三浦義村によって討たれる | |
畠山重忠の乱 |
吾妻鏡より
京での、平賀朝雅との口論?
源実朝の御台所を迎えに行くために京へ向かった畠山重保は、時政・牧の方の娘婿で京都守護の「平賀朝雅」と口論したと吾妻鏡には書かれています。
また、北条政範がこの京~鎌倉の道中で病死していると書かれています。
北条方と畠山方が戦う、畠山重忠の乱の伏線記事がこの頃には書かれていますね。
元久元年10月14日
坊門前大納言信清卿の娘が、源実朝の御台所として下向するので、お迎えの為に人々が上洛した。
北条政範、結城朝光、畠山重保ら・・(他10名ほど)・・
同年11月20日
北条政範の召使が京から鎌倉へ戻ってきた。
去る6日に東山辺りに政範を葬った。また、同4日には、平賀朝雅の六角東洞院の邸宅で酒宴が有った時、平賀朝雅と畠山重保との口論があったが、同席した者たちが宥めたので何事もなく散会となったと。
突如出てくる、叔父の稲毛重成
吾妻鏡ではここで、武蔵国で蟄居していた稲毛重成が突然出てきます。
そして呼んだのは北条時政。稲毛重成は時政の娘婿なので、この畠山重忠の乱が絡まなければおかしくはないのですが・・・。
稲毛重成は畠山重忠と同じ畠山一族。しかし、庶流で鎌倉での地位も畠山には劣る、この野心を時政に利用されたのかもしれません。あくまで勝手な想像ですが。
元久2年 4月11日
稲毛三郎重成入道は、このところ武蔵国に蟄居していたが、先ごろ北条時政の招きにより従者を率いて参上した。人々はこれを怪しんだ。
畠山重保が三浦義村に討たれる
畠山重忠の乱の前哨戦で、まずは嫡男の重保が謀反人として誅殺されます。
ここで、突然「三浦義村」が重保誅殺の中心実物として出てきます。
策士とも言われる三浦義村。北条氏に分があると思ったのか、三浦一族がのし上がるために畠山氏をこの機会に削いでおこうと思ったのか。
同 6月20日
夕方、稲毛重成に呼ばれた、畠山重保が武蔵国より鎌倉に到着
同6月21日
牧の方は平賀朝雅の讒言を受けご立腹のため、畠山重忠・重保を誅殺しようと内々に謀議があった。
同6月22日
寅の刻(午前4時頃)、鎌倉で騒動があり、謀叛人が誅殺されるとのことで軍兵が由比ヶ浜辺りに先を争って向かい、畠山重保も郎従を従えてその場へ向かった。
しかし、三浦義村の命で配下の者が、畠山重保らを取り囲み争ったが、主従ともに殺された。
畠山重忠の乱へ
武蔵国から鎌倉へ向かう途中に重保が殺されたのを知った畠山重忠は、二俣川で北条氏と壮絶な戦いを繰り広げます。
畠山重保周辺の系図1(秩父一族)
畠山一族は桓武平氏の秩父一族から出ています。
畠山重忠の嫡男、重保を誘い出した稲毛重成は従兄弟にあたり、重保から見ると叔父にあたりますね。
しかも稲毛重成も畠山重忠も北条時政の娘を妻に貰っていますので、かなり近い親戚関係となります。
平良文
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秩父重綱
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秩父重弘 → 兄弟から河越氏・江戸氏
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畠山重能 小山田有重 千葉常胤妻
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畠山重忠 稲毛重成 榛谷重朝
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畠山重保
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
秩父一族の中でも畠山が嫡流で、稲毛や榛谷は庶流に当たる為、畠山を討って自分が嫡流の身分へと心のどこかで思っていたのかもしれません。
畠山重保周辺の系図2(畠山一族)
畠山重保の父、畠山重忠には二人の妻がいます。
正妻は北条時政の娘。重保はその子供ですので、畠山を継ぐのは重保だったと思われます。
北条時政
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足立遠元の娘=====畠山重忠=====北条時政の娘
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畠山重秀 畠山重保
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
所詮は赤の他人とは言え、自分の娘の夫と殺しに行くとは、凄い時代ですね。
畠山重保ゆかりの地
畠山重保公墓(鎌倉市)
若宮大路を由比ヶ浜方面に南下していくと一の鳥居が見えてきますが、そのそばにある、鎌倉市の中でも大型の宝篋印塔。
これが畠山重保の墓塔と伝わっています。
鎌倉時代はこの辺は由比ガ浜海岸と考えられていて、三浦義村配下の者に討たれた場所とも近そうです。
畠山重保邸跡
宝篋印塔の横に、畠山重保邸跡の石碑も建っていて、重保の邸宅があった場所らしいです。
謀叛人誅殺の為に由比ヶ浜に向かったのは家からか、それとも違う場所からかは、よくわかりません。
伝畠山重保墓(横浜市金沢区)
鎌倉市から少し離れた、現横浜市金沢区釜利谷には、もう一つの畠山重保墓が伝わっています。
昔の人は、この辺りの山中で自害しここに葬ったと、伝えたようです。
この辺には畠山重忠・重保に関する伝承が残っているようなので、この辺に所領を持っていたのでしょうか?重保の俗称から「六郎谷」という地名も残っていたようです。