比企能員|頼朝の乳母「比企尼」の猶子。鎌倉殿の13人の一人

比企能員|頼朝の乳母「比企尼」の猶子。鎌倉殿の13人の一人

2022-03-12

比企能員(ひき よしかず)

生誕不詳-1203。頼朝の乳母「比企尼」の猶子。
二代将軍「源頼家」の乳母父となって、娘(阿波局)が側室に。外戚として権勢を強めた結果、北条氏に狙われました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、比企能員は「佐藤二朗」さんが演じられます。

比企能員の簡易年表

時期年令出来事
不明0誕生
寿永元(1182)年鎌倉比企尼邸にて、北条政子が源頼家を出産する
比企尼が猶子「能員」を頼朝に推挙し、側近として仕える
元暦元(1184)年木曽義高の残党討伐、平家追討(源範頼軍)に従軍
元暦2(1185)年上野国・信濃国守護となる
文治5(1189)年奥州合戦で北陸道大将軍に
建久元(1190)年頼朝上洛時、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれる
右衛門尉に任じられる
建久9(1198)年娘「若狭局」が頼家の側室に、長男を生み外戚となる
正治元(1199)年十三人の合議制の一人に選ばれる
梶原景時の変で、排斥側に加担
建仁3(1203)年比企能員の変
北条時政の邸宅で、仁田忠常らに殺される。

吾妻鏡から詳しく

北条政子、長男頼家の出産

鎌倉の比企尼の屋敷(比企谷)政子の出産場所に選ばれるのは、頼朝が心から信頼しているからに他なりません。

寿永元(1182)年 7月12日

北条政子に出産の兆しがあったため、以前から決めてあった比企谷殿(比企能員の屋敷)に、輿を乗って移られた。千葉胤正、千葉胤頼、梶原景季らがお供した。

比企能員の乳母父の理由

吾妻鏡には、頼朝を20年に渡って頼朝を援助してきた比企尼について書かれています。
頼朝の乳母の中でも、比企尼は格別な存在だったと思われます。

同年 10月17日

北条政子と源頼家が比企谷殿から幕府御所へ戻った。
佐々木四兄弟が頼家の輿を担ぎ、長沼宗政が弓矢を背負い、結城朝光が剣を持った。

比企能員の姥母「比企尼」は頼朝の乳母であり、頼朝が伊豆に流された時に、武蔵国比企郡に夫掃部允に連れ添い下向し、治承4年に至るまで20年間の間なにかと世話をしていた。

頼朝はその奉公に報いるため、比企尼が甥の能員を猶子として推薦し、かつ、頼家の乳母父になった。

比企能員周辺の系図

比企能員(比企一族)について正確な系図は殆ど分かっていないようです。
「比企藤四郎」と呼ぶこともあって、藤原姓を名乗っていたことは確かなようですが・・・。

比企能員は比企尼の実子ではなく猶子です。
比企尼が能員を推挙し、頼朝の側近として仕え、信頼高く吾妻鏡でも頻繁に登場します。


         比企尼=========比企掃部允 ←義朝の側近か?
          |(猶子)   ├------┬------┬--?--┐
   道=====比企能員   丹後内侍   河越尼    三女    比企朝宗
 ┌----┴---┬                          |
比企能本     若狭局====源頼家           北条義時室=====姫の前

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、比企尼は「草笛光子」さんが演じられます。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、比企能員の妻「道(みち)」は「堀内敬子」さんが演じられます。

比企能員ゆかりの地

武蔵国比企郡中山郷(現比企郡川島町)

比企一族が本拠とした中山郷の推定地です。中山の地名が残っています。

東松山市大谷地区

下記の史跡を巡るには、東松山市大岡市民活動センターの駐車場(無料、開館時間内)を使わせてもらえます。館内には比企一族に関する展示もあります。

城ヶ谷(比企能員館跡)

雷電山の真南にある奥深い谷、口碑も伝えるも館跡は発見されていない。
頼家死後、若狭の局に従って落ちてきた、頼家側近の子孫が住んだとされる場所。

宗悟寺

夫頼家を殺された若狭局が庵を結んだ場所。
頼家公のご位牌を若狭の局が持参したと伝わります。

梅ヶ谷

若狭の局が年老いて隠棲した場所

比企尼山

比企尼が夫「比企遠宗」亡きあと、尼となって草庵を結んだ場所

串引き沼

祖母比企尼の勧めで、心の迷いを去るために、頼家からもらった鎌倉彫の櫛を捨てた場所

比企判官旧地(物見山)

正法寺(岩殿観音)

比企能員が深く帰依していた岩殿観音。
源頼朝が制定した坂東三十三観音霊場に、比企氏のお膝元だったこのお寺が選ばれました。第10番札所。

開山から300年経過し傷みが激しい諸堂を復興させ、比企能員は中興の祖とされています。(寺伝)

妙本寺(比企能員邸)

比企谷(鎌倉市大町)にある妙本寺。

頼朝の乳母だった比企尼は、拠点だった武蔵国比企郡中山郷に住していたが、夫「比企掃部允」が病死し、本人は出家した。

そこで頼朝は、比企尼を鎌倉に住まわせて、その地を比企谷と呼びました。

比企能員邸|鎌倉殿13人の一人を擁する比企一族最後の地(石碑を読む)
今回は妙本寺にある「比企能員(ひき よしかず)」関連の石碑を読んでみました。妙本寺って本堂へ向かう参道が長くて雰囲気があって、どちらかというと京都っぽいお寺で大…
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