北条時政|政子を産み、頼朝を婿に迎えた、鎌倉北条氏の祖

北条時政|政子を産み、頼朝を婿に迎えた、鎌倉北条氏の祖

2021-09-08

北条(四郎)時政(ほうじょう ときまさ)

1138-1215。伊豆国の在地豪族。鎌倉幕府の初代執権。
源氏の貴種「源頼朝」を婿に迎え、息子の「義時」に鎌倉を追放されるも、鎌倉北条氏の礎を作った重要人物です。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坂東彌十郎さんが演じられます。

北条時政の簡易年表

時期年齢出来事
保延4(1138)年0誕生
源義朝の嫡子「頼朝」の監視役となる
娘「政子」が頼朝と結婚する
治承4(1180)年43頼朝と挙兵の計画を練る、山木館を襲撃
石橋山の戦いで敗北し、甲斐国へ逃げ甲斐源氏と合流
寿永元(1182)年45亀の前事件で、時政一族は伊豆へ立ち退く
文治元(1185)年48頼朝の命で京へ行き、守護・地頭の設置を認めさせた(文治の勅許)
文治5(1189)年52伊豆北条の地に願成就院を建立
正治元(1199)年62十三人の合議制に名を連ねる
正治2(1200)年63遠江守に。源氏一門以外の御家人として初めての国司
建仁3(1203)年66比企能員の変で比企氏を滅ぼす
元久2(1205)年67畠山重忠の乱
平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼす
鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居
健保3(1215)年78北条の地で死去

北条時政は、頼朝の挙兵当初は少しの軍勢しか持たない小さな豪族のようで、関東の御家人が参集すると、三浦氏、千葉氏、小山氏、などとの大豪族に押され吾妻鏡上でも目立たたなくなります。

が、東海方面の守護、京都守護など、着実に所領を広げ、人脈を広げ、頼朝死後にその力を開花させます。

また、北条時政の烏帽子親は源義朝(頼朝父)の専一の郎党だった「鎌田政清」。あの勝長寿院跡に源義朝墓のとなりにあるお墓の人物です。昔から源氏とつながりがあった?と思わせる内容も伝わります。

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吾妻鏡より

北条時政最期の記録

一時期、権勢を誇った北条時政ですが、死去は飛脚によって知らされ、義時や政子に看取られてということは無かったと想像できます。

建保3(1215)年 正月8日

伊豆国の飛脚が鎌倉に到着。
「今月6日、戌の刻(20時頃)に入道遠江守従五位下朝臣(北条時政|享年78)」が、北条郡で死去しました。このところ腫物を患われていました」

北条時政周辺の系図

北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称しています。
北条氏の中でも、時政は北条氏の当主ではなく傍流とのことですが、時政の前半は謎の様です。

鎌倉幕府で覇権を握る北条氏は、得宗家を含め名越、金沢流など、すべて時政から続きます。

         北条時方
          |
伊東祐親の娘===北条時政=======牧の方 他
 ├---┬-┴-------┬-┴---┬-----┬-----┬
 宗時  政子===源頼朝  義時    阿波局   時房   畠山重忠
        ├---┬
       頼家   実朝

時政には沢山の子供がいて、上記の系図にも書ききれないほど、いろんな御家人の嫁に行ったりしています。
京都へも在京していたため、公家などととも繋がりがあります。

宗時、義時は、同母の兄弟です。

北条時政ゆかりの地

願成就院跡

文治5(1189)年、奥州平泉攻めの成功を祈願して、北条時政が創建した寺院。
今ある願成就院の境内の横(入口横)にある、大きな平地が願成就院跡です。

大御堂に安置されている、国宝の仏像群は仏師運慶作。
この仏像作成に対抗したのが、三浦一族和田義盛。浄楽寺の本尊も運慶作です。

北条時政墓(願成就院境内)

願成就院の境内に入って左側へ行くと、北条時政のお墓があります。

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