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藤戸の戦い(治承・寿永の乱)
元暦元(1184)年12月に藤戸(現倉敷市)で行われた源平合戦の一戦。
木曽義仲に敗れて西海に逃れていた平家軍は屋島に本拠を、児島にも拠点を構えていました。
力を蓄えた平氏は福原(現神戸市)まで勢いを回復したものの、一ノ谷の戦いで源義経の活躍もあり、再度敗北。
平家方にとどめを指すために西国へ出陣した源氏軍が、屋島・彦島に向かう途中に立ちはだかった、児島藤戸の平家軍と一線を交えることとなった。

この藤戸の戦い(藤戸合戦とも)で活躍するのが、源氏方の武将「佐々木三郎盛綱」
対する平家軍の大将は「平行盛(左馬頭行盛朝臣)」です。
左馬頭(さまのかみ)とは
左馬(→左馬寮|官馬の調教、飼育、各国の直轄牧場を管理する役所)、頭(→長官|トップ)
※同じく右馬頭もある。通常、左の方が上位。
官位は、従五位上相当
平行盛(たいらのゆきもり)
平清盛の次男「平基盛」の次男。基盛は24才で早世している。
平清盛===========時子
├―――┬ ├――――┬――――┬
平重盛 基盛 宗盛 知盛 重衡
|
行盛
合戦の経過(藤戸合戦)
時期 | 日付 | 出来事 |
---|---|---|
寿永3(1184)年 | 3月20日 | 一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れる |
※4月16日に改元、寿永→元暦へ | ||
元暦元(1184)年 | 9月1日 | 平家追討軍(源範頼軍)が、京を出発して西国へ |
12月2日 | 源頼朝が葦毛の馬を、西国にいる佐々木盛綱に贈った | |
12月7日 | 藤戸の戦い 平行盛が守る備前国児島に佐々木盛綱が追討使として出撃 平家軍が敗走し屋島へ逃れる | |
12月26日 | 源頼朝が、藤戸の戦いでの佐々木盛綱の功績を称える |
源平藤戸の戦い
12月7日
平氏一族の「平行盛」が500余騎の軍兵を率いて、備前国児島に陣を構えた。
源頼朝は、佐々木三郎盛綱を追討使として、攻め落とすように児島へ向かわせた。
しかし、波が激しく渡ることが困難だっため、浜辺で轡(くつわ|手綱をつけて馬を御する馬具)を止めていたところ、平行盛が挑発。
船が見つからなかった佐々木盛綱は、武勇を奮い立たせて馬で引き連れた郎従6騎と共に、藤戸の海路を渡り切り、行盛を追い落とした。(吾妻鏡)
源頼朝からお褒めの言葉
12月26日
源頼朝は、佐々木三郎盛綱の児島藤戸での戦いについて感心したと御書を出した。
「昔から、河を渡る話はあるが、馬で海の波を押し渡ったという例は聞いたことが無い。盛綱の振る舞いは、世にも希な壮挙である」と。(吾妻鏡)
源平藤戸古戦場マップ
現在の藤戸周辺は倉敷川(藤戸川)が流れていますが、埋め立てられて平地になっています。
源平合戦が行われた約800年前は、佐々木三郎盛綱が海で平家陣側(乗り出し岩→篝地蔵(へ渡ったとあるので、一帯が海だったようです。
現地を歩くと、乗り出し岩、先陣庵、篝地蔵、藤戸寺が高い場所にあることが分かります。
源氏方(佐々木盛綱)史跡
源平藤戸合戦八百年記念碑
盛綱橋近くの交差点「藤戸大橋」の側に、源平藤戸合戦八百年記念碑が建っていて、その横に「源平藤戸合戦略記」と、本ページ上にある「藤戸古戦場マップ」が掲示されています。


盛綱橋(佐々木盛綱像)
藤戸寺と経ヶ島を横切る倉敷川(藤戸川)に掛かる、赤い欄干が目立つ橋が盛綱橋。
橋の経ヶ島側には、馬に乗った盛綱像が設置されています。
藤戸合戦当時、この付近は海だったと予想されます。


御崎神社
御崎神社略記によると、
源氏の武将佐々木三郎盛綱が、高坪山山麓に布陣し、山頂の社に八幡宮を合祀して戦勝祈願をした。
合戦に大勝した盛綱がその神威に感激して、浜宮の西のこの岬に宏壮な社殿を作って遷宮したと伝えられる、佐々木盛綱ゆかりの神社である。


蘇良井戸
蘇良井戸は住宅の奥地にヒッソリとあり、説明板もありません。
背後の高坪山一帯に布陣した源氏の軍勢が利用したと伝えられる井戸です。


乗り出し岩
佐々木盛綱がこの岩鼻から馬をおどらせ乗り出した場所。波浪、寒中をものともせず一気に海中を押し渡り、平家軍を敗走させた。


鞭木跡(むちきあと)
海へ乗り出した盛綱が、少し浅くなっている場所で鞭をつき休んだところ、その鞭がいつしか巨木に育ち地名なった。
浮洲岩跡(うきすいわあと)
浮洲岩と呼ばれている岩礁の跡。
大きさが長さ9m、幅3.6mほどで、海から浮き出ていたことからこの名前。藤戸合戦の激戦地。
この巨石、現在は京都の醍醐寺三宝院の庭に置かれてる。


先陣庵(西明院境内)
佐々木盛綱が対岸の源氏の陣中から海を渡り上陸した場所(先陣を取った場所)。
その後、盛綱はこの地に「先陣寺」という寺を建てて、戦没将兵と、渡海の手引きをしてくれた恩ある(でも殺害した)浦男の冥福を祈った地。
今は西明院の境内にある一宇の小庵になっています。


誓紙井戸
平家滅亡後に児島の地を拝領した佐々木盛綱。
新領地にやってきた盛綱は土地の有力者に服従を求めて、誓紙を差し出させた。
その誓紙を書く硯水を汲んだ井戸。
平家方史跡
篝地蔵(平家本陣跡)
平家が本陣を置き、かがり火を焚いたという場所。今はお地蔵様が祀られて「篝地蔵」と呼ばれている。
本陣跡は丘の上にあって、北側には田園地帯を挟んで、源氏が本陣を置いた「日間山」一帯の低い山々が見える。


漁師の母子ゆかり
海の向こう側で、舟も無く海の戦いに慣れていない源氏軍を挑発する平家方。
佐々木盛綱は地元の若い浦人(漁民)から馬が渡れる浅瀬の位置を聞き出したのち、他の源氏方武士に先陣を奪われない為にか、口封じのため殺害。
そしてわずかな手勢を率いて先陣を開き、油断していた平家軍を屋島へ敗走させました。(平家物語)
盛綱の功名の裏で、罪もない自分の子供を殺された浦人とその母ゆかりの場所が藤戸古戦場のもう一つの見どころです。
吾妻鏡には浦人の話は一切出てきませんので、平家物語による創作か事実かは分かりません。
藤戸寺
藤戸合戦の戦功で児島の地を賜った盛綱。
1人の老婆が、盛綱に亡き者にされた我が子を返してくれと嘆き訴えた。(謡曲「藤戸」)
荒廃した藤戸寺を修復し、両軍の戦死者と、自身の勝手な都合で殺してしまった浦人を供養するために大法要を催しました。


経ヶ島(きょうがしま)
漁夫の追福のため、藤戸寺で大供養を行い、写経をこの島に埋めたため、経ヶ島と呼ばれるようになった。
頂上にある二基の宝篋印塔の内、小さい方が漁夫の供養塔と伝わる


笹無山
罪のない息子を盛綱に殺された母親。
「佐々木憎けりゃ、笹(佐々)まで憎い」と、二度と笹を生えない様に当たりの笹をすべて抜いたという言い伝え。

