一条忠頼|頼朝に誅殺された甲斐源氏の一人、武田信義の嫡男

一条忠頼|頼朝に誅殺された甲斐源氏の一人、武田信義の嫡男

一条(源)忠頼(いちじょう ただより)

生誕不詳-1184。父は甲斐源氏の嫡流「武田信義」。
甲斐国山梨郡一条郷を領したことから、一条氏を名乗りました。藤原氏にも一条家があってややこしいですね。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、前原滉さんが演じられます

一条忠頼の簡易年表

出来事
生誕不詳武田信義(甲斐源氏)の嫡男として誕生
治承4(1180)年8月甲斐源氏が挙兵
10月富士川の戦いで兵士を撃破
寿永3(1184)年正月木曽義仲追討に参加。
元暦元(1184)年6月頼朝の命を受けた天野遠景に暗殺される

吾妻鏡より・・・

一条忠頼は、父「武田信義」と一緒に、平氏討伐のために立ち上がります。

甲斐源氏の挙兵

治承4(1180年) 9月10日

甲斐国の源氏、武田太郎信義一条次郎忠頼以下は、石橋山合戦のことを耳にし、駿河国に向かおうとした。が、まず信濃国にある平氏方を討伐。

同年 9月15日

武田太郎信義一条次郎忠頼以下は、信濃国中の敵を討ち甲斐国に戻り、そこに頼朝の命令を伝えるために北条時政が到着した。

同年 9月20日

土屋三郎宗遠が頼朝の使いで甲斐へ向かった。頼朝軍は安房・上総・下総・上野・下野・武蔵の国々の精鋭を率いて駿河国に向かい、平氏を待ち受けるので、北条時政の案内で黄瀬川の辺りに来るようにと。

同年 9月24日

土屋宗遠が到着し頼朝の命令を伝え、駿河国で合流しようと皆で協議した。

一条忠頼の誅殺

一条忠頼は一瞬にして誅殺されますが、吾妻鏡には結構細かく、事の次第、登場人物などが記述されていて参考になります。そして家人ら全てを殺害するのではなく、京文化に優れた人物は囲うという頼朝らしさも見て取れます。

元暦元(1184)6月16日

一条次郎忠頼が威勢を振るうあまり、世を乱そうという野望を抱いていると噂が、頼朝の耳にも入ってきたため、御所で誅殺することになった。

夕方、御所にて、頼朝と呼ばれて参上した忠頼は向かい合って席に着いた。

忠頼の討手は「工藤祐経」だったが、直前になり顔色が変わり、近くに居た小山田有重が祐経の銚子の役を「こういう席での御酌は年寄りの役割だ」と言って変わり、息子の稲毛重成榛谷重朝も盃と肴を手にして、忠頼の前に進んだ。

その時、天野遠景が瞬く間に一条忠頼を誅殺。頼朝は背後の障子を開いて奥に入られた。

忠頼の共侍が主人が殺されたのを見て太刀を持って侍の間に駆け上り、重成重朝結城朝光らと戦い討ち取られた。

同年 6月18日

故一条次郎忠頼の家人で歌舞曲に堪能な「甲斐小四郎秋家」が召し出され、情けをかけられ、幕府に仕えるように命じた。

甲斐源氏の系図

一条忠頼は、清和源氏義光流から分かれた、甲斐源氏武田氏の支流です。
鎌倉時代を調べていると、見かける「加賀美氏」や「安田氏」は甲斐源氏の嫡流から分かれていますね。

源頼義
├--------┬
源義家     新羅三郎義光
         |
        源義清(甲斐源氏)
         |
        源清光 
         ├------┬--------┬
      武田信義(1128)   源遠光(1143)   源義定(1134)
         |      [加賀美氏]    [安田氏]   
       一条忠頼(?)

一条忠頼周辺の系図

一条忠頼は、父武田信義の「義(源氏の通字)」や「信」を通字として用いていないので、嫡流ではないと考えられます。

もしくは嫡流として期待されたが、頼朝に誅殺されて、結果的に、残った信義5男「武田(石和)信光」が嫡流を継いだとも考えれます。

武田清光
 ├---------┬----------┬
武田信義       加賀美遠光      安田義定
 ├---------┬-------┬----┬
武田信光(1162)   一条忠頼(?)   有義   兼信   
 ├---------┬---------┬
武田信政       一条信長      佐原義連

一条忠頼が誅殺された後は、武田信光の次男「信長」が一条家を継ぎました。

一条忠頼(甲斐源氏)ゆかりの地

甲府城址

▶ 甲府市丸の内1-5-4 |近隣コインPあり|JR甲府駅南口 徒歩五分

日本百名城の一つ甲府城(NO.25)。一条小山城という別名を持っていて、甲府城が築かれる前は、一条忠頼が館を構えた一条小山と呼ばれたそう。そこに、一蓮寺も建立されていました。

一蓮寺(一条氏居館跡)

▶ 甲府市太田町5-16 | Pあり | JR甲府駅より徒歩15分

一蓮寺は、以前、一条小山(現甲府城)一帯にあった寺院。

武田信義とその子「一条忠頼」が土着し、一蓮寺の前身は一条氏の居館跡とされ、源頼朝に誅殺された一条忠頼の妻が菩提を弔うために建立された尼寺だったそう。

明楽寺跡(一条忠頼墓)

▶ 南巨摩郡富士川町舂米(つきよね) | Pなし |

富士川町舂米の山側の一番奥の道路沿い(とにかく行きにくい)にある、明楽寺跡と一条忠頼の墓。
周辺は細い道路で路上駐車も厳しい地域です。とは言え、徒歩で行くのもなかなかの急坂を上ります。

現在は廃寺の明楽寺。開基の一条忠頼の菩提を弔うために創建され、お墓だけ残っています。

一条氏の所領は現甲府城周辺だけでなく、この辺(大井荘南条)にも及び、近くにある宝林寺が屋敷跡だったようです。(下記)

宝林寺(一条忠頼屋敷跡)

▶ 南巨摩郡富士川町舂米1341 | Pあり |

一条忠頼の墓から、山を下りて約800mの場所にある日蓮宗の寺院。
寺院の前身が一条忠頼の屋敷跡と言われています。

駐車場の場所は分かりにくいですが、お寺の山門をくぐって境内を通り、鐘楼の下側に駐車場があります。

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