石橋山の戦い|源頼朝軍 vs 大庭景親軍、石橋山古戦場を巡ってきた記録。

石橋山の戦い|源頼朝軍 vs 大庭景親軍、石橋山古戦場を巡ってきた記録。

2021-10-19

石橋山の戦いとは?

治承四(1180)年 8月23日に源頼朝が以仁王の令旨(命令)を受けて挙兵した場所が石橋山。
そこで、平家方の大庭景親軍と合戦になった戦いを「石橋山の戦い」と言います。

源頼朝軍300騎に対し大庭景親軍は3000騎。
軍勢の多さもさることながら、夜間&大雨時に奇襲を掛けられて頼朝軍が惨敗し、なんとか安房へ海路で逃げ延びた戦いです。

頼朝一行の行動

吾妻鏡を参考にすると、頼朝の一行の行動は下記の通りです。

日付出来事
8.20土肥館(現JR湯河原駅)で軍議を開く
8.23石橋山の合戦で敗北(源頼朝軍 vs 大庭景親軍)
佐奈田与一義忠、家臣文三が討死
8.24土肥実平の案内で敗走(堀口の合戦 → 伏木 → ある岩窟 → 箱根権現永実の館)
8.25土肥郷へ
8.28真鶴から土肥実平が手配した小舟で安房国へ (七騎落?)
8.29安房国へ上陸し、三浦一族等と合流

七騎落(しちきおち)

石橋山の合戦で敗れた源頼朝が安房へ小舟で逃げ落ちた時に従った7人の武士の事。能楽・狂言の曲名。

石橋山で敗戦して逃げ落ちていた頼朝主従は8騎。
頼朝は祖父「為義」、父「義朝」の先例を想い、8騎の数を忌んで7騎にするようにと土肥実平に命令。

最高齢の岡崎義実は断固反対したため、実平の長男土肥(小早川)遠平を下船させるも沖合の和田義盛に救われたとする話が、が謡曲「七騎落」。

この7人がいろんな説がありまして、

名数数詞辞典:
 源頼朝、土肥太郎遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗達、田代冠者信綱、土佐坊昌俊岡崎四郎義実

能・狂言事典新訂増補版:
 源頼朝、土肥実平、土肥遠平、新開次郎、土屋三郎、田代信綱、土佐坊岡崎義実

城願寺七騎堂:
 源頼朝、安達盛長土肥実平、新開忠氏、土屋宗達、田代信綱、岡崎義実

とまあ、こんな感じで何が正しいのか分かりません・・・。すべてに名前がある武士もいますね。

一番正しいのは、一番古い吾妻鏡なんでしょうけど「土肥実平を連れて」のみで、他の同船者の名前は書いてありません。でも頼朝と二人だけっていうのはちょっと信じられませんけど。

佐奈田与一義忠の討死

吾妻鏡には簡単に、治承4年 8月23日の条に

源家に従う兵の数は大庭景親らの大軍とは比べ物にならないほど少なかったが、全員、昔からのよしみを重んじて死を恐れなかった。そのため、佐奈田与一義忠とその郎党らが命を落とした。

と書かれています。
より詳しい内容は「平家物語」「源平盛衰記」に書かれていますが、どこまでが創作が事実かが問題です。

闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に義忠が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問うと、義忠は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が義忠と見当をつけた。これまでと思った義忠は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが、不覚にも鞘ごと抜き放って刺さらなかった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けず、そのうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、義忠は首を掻き切られて討ち死にした。享年25

Wikipediaより

後年の墓参り、頼朝涙する

建久元(1190)年正月20日

晩になって頼朝は二所詣でから鎌倉に戻ってきた。
その途中の石橋山で佐奈田与一と郎党(文三)らの墳墓を見て涙を流した。

ただ、二所詣での途中でこのような涙を流すようなことがあってはいけないということで、二所詣でのルートを変更した。ようなことも書かれています。

石橋山古戦場

石橋山古戦場は、小田原市石橋にある4つの史跡を包括する場所です。
相模湾沿いを走る「国道134号線」沿いからちょっと山側に入った場所にあります。

石橋山古戦場への行き方

正直、車でないとかなり厳しいと思います。。。

初めの難関は、国道135号線から石橋山古戦場へ向かう山道への入り方。
交通量の多い国道135号線ですが、信号も右折レーンもありませんけど、小田原から真鶴方面へ進み対向車線を横切って入るのが正解です。

真鶴から小田原方面へ進み左折しようとしても、石橋山古戦場へ向かう山道は、国道135号線に沿って180度逆向きについていて、切り返しをしないと曲がり切れなくて、こちらの方が実は危ないです。

山道に入ってしまえば、道は細いですが交通量も少ないですし、駐車場までの表示も分岐点には掲示されているので迷わず行けると思います。

石橋山古戦場が広がる場所は、ミカン畑?が広がる急斜面な場所で、高低差もあり、道幅も狭いのでバスなんかが通れる道じゃありません。

佐奈田霊社に参拝者用駐車場(無料)がありますので、ココに停めさせてもらって、古戦場を巡るのが一番です。

石橋山古戦場碑

石橋山古戦場碑は、国道135号線から佐奈田霊社の駐車場へ向かう道の右側に建っています。
右下の写真の中央部に小さく映っている灰色の物体が碑です。石碑しかありません。

佐奈田霊社の駐車場に車を停めてから、歩いていく事が出来るので、まずは駐車場に向かってください。

佐奈田霊社

治承4年、石橋山の戦いで、頼朝を助ける為に犠牲になった佐奈田与一岡崎義実の嫡男)を祭神とする神社です。本殿は三浦一族の家紋(三浦三つ引)が目立ち堂々とした佇まい。

この山の中にこんな立派な神社があるのかと思わせてくれます。

余一塚

佐奈田霊社の境内の中央付近には与一塚があります。

佐奈田義忠|頼朝の身代わりとなり25歳で討死した、岡崎義実の嫡男。

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佐奈田飴

佐奈田霊社の本堂で討っている「佐奈田飴(500円、PayPay可)」
佐奈田霊社は日本唯一、せき・のど・ぜんそく等の祈願所としても有名です。ニッキ飴のような味です。

佐奈田与一が俣野景久と組み討ちをする中、味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという故事から、たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られ、芸能関係者の参詣も多くあるとのこと。

ねじり畑

佐奈田霊社の境内奥から文三堂へ向かう下り石段を降りた場所にあるのが「ねじり畑」
今は普通のミカン畑ですけど、ココが佐奈田与一義忠の討死の地とされているようです。

治承4(1180)年8月23日、敵の豪将「俣野五郎景久」を組み伏せたが、駆け付けた敵方「長尾新六定景」に首を切られたと。

名字は違いますけど、俣野五郎は平家方総大将「大庭景親」の弟。
そして、長尾定景と俣野景久は従兄弟の関係、すべて鎌倉党の面々(景が通字)ですね。

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文三堂

文三(家安)は、佐奈田与一の家臣。
主人の討死を知って、敵陣に斬り込んで、八人を討ち取って壮絶な戦死を遂げた人物です。

義忠は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は義忠が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだからお伴をして討ち死にすると言い張り、義忠もこれを許したと。

なお、主人(佐奈田与一)を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。
文三堂の中にはお墓(墓石?)みたいなものが置いてありました。

源頼朝上陸地(鋸南町保田)

頼朝の上陸地点、吾妻鏡にも書かれている「安房国平北郡猟島」は、現在の鋸南町竜島(りゅうしま)とされているようです。

ここからは、空気の澄んだ日には対岸の三浦半島がはっきりと見えます。

安房国についた源頼朝は、まず小さい頃からよく知っている安房の安西景益を頼ります。

安西景益|源頼朝の幼なじみ、安房国を本拠とする在地領主。

安西という名前は、安房国西部を支配したことに由来するようです。 安西(三郎)景益…
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