葛西清重|西光寺(葛飾区)に居を構え下総国葛西郡を支配した秩父一族の庶流

葛西清重|西光寺(葛飾区)に居を構え下総国葛西郡を支配した秩父一族の庶流

2021-07-12

葛西(三郎)清重(かさい きよしげ)

今回は、鎌倉幕府の御家人「葛西清重(かさい きよしげ)」について、ゆかりの場所に行ってきたついでに、生涯等について整理してみました。

葛西清重の簡易年表

葛西清重は秩父氏の庶流だけでなく、豊島氏の庶流でもあったのですが、頼朝から厚く信頼されて、父「豊島清元」や兄「豊島朝時」以上に吾妻鏡に頻出し鎌倉幕府内で活躍した人物です。

源頼朝が亡くなった後も、北条氏側への忠実な見方ぶりが見られます。

下記の年表見ても、頼朝の家子に選ばれたり、戦功を称されたりしています。
頼朝は、一様血筋とかは見ますけど、実力に応じて御家人を取り立てたりしてますね。

年代年齢出来事
応保元年(1162)0父・豊島清元の三男として誕生
治承4年(1180)18父・豊島清元と共に頼朝軍に参陣
 ※兄・豊島朝時は在京中
頼朝、常陸国の佐竹秀義を討った後に清重の館に立ち寄り、
養女を頼朝の御膳に侍らせる
養和元年(1181)19頼朝の家子(頼朝の寝所を警護する11名の内)に選ばれる
元暦元年(1184)22木曽義高の遺臣捜索に参加
源範頼の平氏討伐の遠征に従軍
元暦2年(1185)23頼朝から特に慇懃(いんぎん)の御書を賜り大功を賞される
文治5年(1189)27父・豊島清元と共に奥州藤原討伐(奥州合戦)に従軍
論功行賞で「奥州総奉行」、岩手県南部の所領を賜る
建久元年(1190)28頼朝上洛し推挙され「右兵衛尉」に
建久5年(1193)31北条泰時元服の儀に臨席
正治元年(1199)37梶原景時の変で、御家人同盟に加わる(反梶原)
元久2年(1205)43畠山重忠の乱では、北条義時率いる幕府軍の先陣をつとめる
建暦3年(1213)51和田合戦では幕府軍として力戦。「壱岐守」に
承久3年(1221)59承久の乱では軍議に参加
元仁元年(1224)62伊賀氏の乱では北条政子に協力して鎮圧に力をつくす
嘉禎2年(1238)76晩年は親鸞に帰依し出家し壱岐入道を称す。没年不詳。

注)年齢は±1歳ほど前後する可能性ありますが、おおよそ分かればOKと考えています。
注)生没年は、下記の葛西清重墓に書かれている年代を採用しています。(諸説あります)

奥州総奉行

文治5(1189)年の奥州合戦により軍功を挙げた葛西清重が任命された奥州総奉行(設置は1189年)。
奥州の御家人を統括するために、伊沢氏とともに複数奉行人の統治体制がとられた。

吾妻鏡より・・・・

奥州総奉行の仕事ぶりを褒められる

文治5(1189)年11月8日

奥州支配の為に陸奥国に留まっていた清重に頼朝は種々の事を命じた。
・平泉を中心に農具や種子を遣わし、米や銭を下し与えたりして窮民を救うように
・藤原泰衡に味方した、故佐竹義政(佐竹秀義兄)の子息と称した者たちを捕縛すること
・泰衡の幼い子息を探し出して捕縛する事

また、大田田師衡が失った馬を貞氏出したこと、所領の内に市を立てたこと、およそ国中が静まったことを聞いたこと、とても感心している。とお褒めの言葉もあった。

また、母の病気は大事無いので、引き続き国中を警護せよと。

建久元(1190)年12月11日

頼朝が上洛している時、御家人十人が成功により左右兵衛尉、左右衛門尉などに推挙され任じられた。

同時に任じられた御家人としては

左兵衛尉 
 平(千葉)常秀(祖父常胤の勲功の賞の譲り)
 平(梶原)景茂(父景時の勲功の賞の譲り)
 藤原(八田)朝重(父知家の 勲功の賞の譲り)
右兵衛尉 
 平(三浦)義村(父義澄の同賞の譲り)
 平(葛西)清重(勲功の賞)
左衛門尉 
 平(三浦)義連(勲功の賞)
 平(和田)義盛(勲功の賞)
 藤原(足立)遠元(勲功の賞、元前右馬允)
右衛門尉
 藤原(小山)朝政(勲功の賞、元前右兵衛尉)
 藤原(比企)能員 (勲功の賞)

などがいる。

葛西清重までの系図

系図については諸説ありますが、いろんな情報をかき集めて整理した結果は下記の通り。
氏族としては、桓武平氏平良文流、秩父氏、豊島氏となります。

平良文(886)
 |
 |
秩父将常(1007?)
 ├------------┐
秩父武基         秩父武常(?)
 |            |
秩父重綱         秩父常家(?)
 |            |
畠山・川越・江戸氏    秩父康家(?)
              |
             豊島清光(?)
              ├--------┐
             豊島朝経(?)   葛西清重(1162)====千葉常胤

大きな括りで言うと、畠山氏とか江戸氏とかと同じ一族ですけど、かなり遠い昔の時代に分かれてますから、当人たちに一族の強い関係があったかどうかは分かりませんね。

葛西氏の所領

葛西とは、葛飾の西(葛飾西群)の意味。

武蔵国と下総国の国境は、隅田川か江戸川(昔は太井川)にするか決まってなかったそうですが(洪水して川の流れが変わってしまうから)、古くから葛飾区は下総国だったようです。

つまり国境は隅田川。
でも、鎌倉時代以降は武蔵国葛西郡と書かれた史料も見られるそうで、国境は江戸川ですね。

ということで、変に正解を求めるのは辞めにしましょう(汗)

現在の東京都葛飾区の範囲は上記の通りですが、昔の葛飾郡はもっと大きかったようです。

豊島一族ゆかりの場所

豊島氏と庶流の葛西氏について、ゆかりの場所をグーグルマップに整理しています。
新しいゆかりの場所が分かり次第追記していきます!

西光寺(葛飾区四ツ木)

京成「四ツ木」駅からフラットな道を歩くこと10分程度で「西光寺(天台宗)」に到着します。

創建は嘉禄元年(1225)葛西清重が63才頃
親鸞聖人が関東遊行布教の際に、 葛西清重の館(現西光寺)に立ち寄りました。

が、雨が降り止まず親鸞を53日もの間足止めに。

しかしその間に葛西清重は親鸞聖人の教えをじっくりと聞くことができて、感動して帰依し、弟子となり、名前を西光坊定蓮(じょうれん)と改め、自宅を西光寺として寄進したそうです。
(ここら辺は、帰依者が自宅を寄進するという日蓮宗と同じようなパターンですね)

当時の西光寺は浄土真宗でしたが、戦火等で衰退し、後に天台宗の僧侶の尽力でお寺が再興し今に至ります。

葛西三郎清重の墓

西光寺から100mほど離れたところにある葛西三郎清重の墓です。

壱岐守まで昇進し、源頼朝の信任の厚い重臣でしたと書かれています。

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