今回は鎌倉に所縁がある特定の人物を掘り下げて行きたいと思います。
当初は誰この人?だったのですが、調べて行くと凄い人物だったりしますよね。
河村瑞賢
建長寺にある河村瑞賢遺跡
※2023年6月現在、立入禁止になっています!
鎌倉五山第一位の建長寺中心部から半僧坊へ続く道を歩いて行くと左側に何やら階段が見えてきます。
特に塔頭寺院が有るわけでもなさそうなのでスルーする人が多いと思いますが、この先に「河村瑞賢遺跡」があるんですね。
道も結構荒れてるし、階段結構長いしで、途中で引き返したくなります(汗)
やっとのことでたどり着くと、広い平場に石碑が何個か建っていますが全く読めません。。。
「行き損だったな」
これが、河村瑞賢遺跡の第一印象。
でもセンター試験にも出題される重要人物。無知って怖い。今となってはごめんなさいって感じです。
河村瑞賢(かわむら ずいけん)とは?
1618-1699年。江戸時代初期の土木事業家。(江戸時代のスタートは1603年)
ざっくり年表を作ってみると
・1618年 三重県生まれ(度会郡南伊勢町)。貧農。
・1631年 13才で江戸に出て土木工事に携わる
・1657年 明暦の大火で木曽福島の材木を買い占め、土木業で莫大な利益を上げる
・1671年 航路開拓 全国の年貢米を江戸に集めるため東西廻り航路を確立。
・1674年 治水工事 淀川の治水工事で安治川の開削等。
・1699年 死去
一貫して土木関係で大金持ちになった感じですね。
そして明暦の大火が成功のきっかけっていうのがピンチをチャンスに変える起業家っぽい。
大阪にある安治川は今でも健在で、安治川沿いには河村瑞賢の碑が建ってましたよ。
三重県出身ということもあって、北畠氏(村上源氏の流れ)の家来筋と言ってたとか。
河村瑞賢と新井白石
で、大金持ちになるとやっぱり江戸幕府にも目を付けられるようになるわけで、老中(相模国:小田原藩主の稲葉正則)に接触して幕府の公共事業に関わったり、最終的には旗本になったりと、貧富の身分からの大逆転な人生。
※旗本:徳川将軍家直属の家臣団。石高1万石未満。
世間的には「殿様」と呼ばれる身分。旗本が持つ領地は「知行所」
そんな河村瑞賢の功績を残した(記録した)人が、鎌倉に所縁のある新井白石(6代将軍徳川家宣の侍講、旗本、朱子学者)。
実は、新井白石の知行所が植木村なんですよね。
「奥羽海運記」や「畿内治河記」で「天下に並ぶ者がない富商」なんて書かれたみたいですよ。
新井白石は明暦の大火頃に生まれたので河村瑞賢より39歳も年下。
実際に会ったこともあり孫娘を新井白石の嫁にと縁談申し込んだことも。パトロンだったとも。
河村瑞賢 1618-1699年
新井白石 1657-1725年
参考図書
建長寺での行事。瑞賢忌
6月16日。こんな偉大な河村瑞賢を偲んで、河村瑞賢遺跡にある墓前で法要が行われます。
河村瑞賢は旧暦の元禄12年(1699年)6月16日に亡くなってるんですね。
でも、なんで鎌倉建長寺で行事が?
鎌倉検定本には、「建長寺の裏に別荘を持っていた」「禅への信仰心が深かった」ためだそうです。
新井白石経由で鎌倉に興味を持って、建長寺付近に別荘を購入とも考えられますね!
確かに豪商ですから鎌倉に別荘があってもおかしくないし、起業家は禅で自分を見つめなおすとか好きそうですしね。河村瑞賢のことを理解するといろいろと繋がりますね。
河村瑞賢と東京
河村瑞賢屋敷跡
東京都中央区の新川に河村瑞賢の屋敷跡がありました。
1657年,明暦の大火の時に材木を買い占めて財を成したとあるので、その時はここに住んでたんでしょうね。
東西廻り航路を開拓した河村瑞賢は、中央区新川に住んでたんですね😊
— kagolabo@鎌倉 (@KagolaboJp) September 30, 2020
鎌倉の建長寺に河村瑞賢の墓を見つけてから、この人の事ググりましたから。#河村瑞賢 pic.twitter.com/NnXNYEx8vT
これからは、境内にある誰か知らない碑でもスルーしないで深掘っていけば新たな発見がありそうですね!