俣野景久|守護仏の観音像を安置している俣野観音堂(戸塚区俣野町)

俣野景久|守護仏の観音像を安置している俣野観音堂(戸塚区俣野町)

2021-10-16

今回は平安時代末期の武士、俣野景久について深堀してみました。

俣野(五郎)景久(またの かげひさ)

1147-1183。大庭景宗の四男。
相模国鎌倉郡俣野郷(現、戸塚区俣野町、藤沢市西俣野)に住んで俣野を名乗る。景尚と言われる場合も。

名字が「俣野」になってますけど、石橋山合戦での平家側総大将「大庭景親」の弟です。
 ※ここは押さえておかないといけないポイント!

俣野景久(景親弟)の系図

大庭景宗(1115-)
 ├---------┬--------┬------------┐
(懐島)景義(1138-)  景親(1140-)  (豊田)景俊(1145-)  (俣野)景久(1147-)
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 景兼

曽我物語で、河津祐泰(1146|曽我兄弟の実父)と相撲で対戦し、はじめて「河津がけ」された人物と書かれている。まだ、河津祐泰が生きているときなので1176年以前の事。

後述の石橋山の合戦佐奈田与一と死闘を繰り広げ、従兄弟の長尾定景に助けられる。兄景親が処刑されたその後も平家軍と共にし、最後は倶利伽羅峠の戦い(1183)で討死した。

俣野景久の簡易年表

俣野景久について、気になる出来事を年表に纏めてみました。

日付年齢出来事
久安3年(1147)0誕生 ※諸説あり
安元2年(1176)?29河津祐泰と相撲で対戦、初めて「河津がけ」をされる
治承4年(1180)8月33石橋山の合戦で、源頼朝軍に勝利
 家臣で従兄弟の長尾定景と共に、佐奈田与一を討ち取る
治承4年(1180)10月鎌倉に入府した頼朝軍により、京都へ敗走
寿永3年(1183)5月36平宗盛軍の将として、木曽義仲軍と加賀篠原で対戦
 平家軍敗北で、戦友「斉藤実盛」とともに敗死

上記の簡易年表で出てくる「河津祐泰」は曽我兄弟の実の父親。「斉藤実盛」は、小さいころの木曽義仲を助けた人物。

大庭一族ゆかりの場所

俣野氏ゆかり場所マップ(地図)

俣野観音堂(戸塚区俣野町)

横浜市戸塚区俣野町にある、俣野景久に由緒あるとされる「俣野観音堂」
昔からこの場所にあったかどうかは分からないようだが、近くには鎌倉街道が通っている。

俣野観音堂には駐車場がありません。
神奈川中央交通の「観音堂前」バス停の目の前にあります。(藤沢駅、湘南台駅が起点)

なお、日中以外はジャバラ扉門で閉めらていて中に入ることができないので要注意。

俣野観音堂説明板

説明板には、俣野五郎景久が敗死する直前に、
「守護仏の観音像を家臣に託して母の待つ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最後を遂げた」と書かれています。

ここには、俣野景久の守護仏である観音像が祀られて俣野観音堂と言う名前になったものと思われます。

平家軍の敗戦が濃厚になった時、源氏に鞍替えする話が有ったようですが、景久は強く反対して、兄の大庭景親と同じく、最後まで平家軍として戦った芯のある武士だったようですね。

俣野大権現(遊行寺境内)

こちらは藤沢市西富にある遊行寺。
一遍上人が興した「時宗」の総本山でもあり、箱根駅伝では遊行寺の坂としても有名な場所です。

その遊行寺の境内の中にヒッソリと佇む「俣野大権現」
実は、この俣野という名前は俣野一族と関係があります。

遊行寺の開山は呑海。開基が「俣野景平」です。
呑海は時宗の僧ですけど、出家する前は相模国俣野氏の出身で、開基「俣野景平」の兄です。

つまり兄弟でこの場所を寄進して遊行寺を建てたということ。
長男が家督を継ぐので、家督を継げない次男以降がお寺に入るとか、昔のあるあるですね。

創建は1325年。

俣野大権現に祀られているのは、開基の「俣野(五郎)景平」
この先祖を辿ると、俣野景久に当たります。「景」を継いでますからね。4代前くらいでしょうか?

俣野(五郎)景久(1147 – 1183)
俣野(五郎)景平(1265以前 – 1345頃)

なにわともあれ、藤沢市近辺は大庭一族の影響力は大きかったんでしょうね。

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