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源実朝(みなもとのさねとも)
1192-1219。
源頼朝と北条政子の間に生まれた次男。幼名は千幡。
鎌倉幕府第3代征夷大将軍。武士として初めて「右大臣」に。歌人でもあり、家集として金槐和歌集がある。
秦野市にある源実朝公御首塚
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) October 22, 2021
公暁が殺された後、行方不明だった実朝の首は三浦一族の武常晴がこの地に持ってきて住み着いたとか🤔
横須賀市武って地名がありますね!#源実朝 #首塚 #秦野市 #史跡 pic.twitter.com/BXEyMXrKRb
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、柿澤勇人さんが演じられます。
源実朝の簡易年表
頼朝が亡くなってから発生した御家人闘争の真っ最中で将軍職を全うしましたが、28歳という短い人生で幕を閉じました。
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
建久3(1192)年 | 0 | 鎌倉にて誕生(父:源頼朝、母:北条政子) |
建仁3(1203)年 | 12 | 兄頼家(失脚し後に暗殺)に変わって将軍に就任 北条時政邸で元服。実朝と称する。 |
元久2(1205)年 | 14 | 牧氏事件 実朝を廃する謀計より、時政邸から義時邸へと逃れる |
承元2(1208)年 | 17 | 疱瘡を患い、病の痕を恥じて以降3年鶴岡八幡宮への参拝を止める |
承元3(1209)年 | 18 | 和歌三十首の評価を藤原定家に依頼 |
建暦3(1213)年 | 22 | 泉親衡の乱 死罪を命じられた「渋河兼守」は歌を詠み、実朝は罪を許した |
和田合戦 | ||
金槐和歌集を纏める | ||
健保2(1214)年 | 23 | 栄西より「喫茶養生記」を献上される |
健保4(1216)年 | 25 | 渡宋のため、僧「陳和卿」に唐船の建造を命じる。 翌年、由比ガ浜から海に向かって曳かせるが船は浮かばなかった。 |
健保6(1218)年 | 27 | 右大臣に任ぜられる。 |
健保7(1219)年 | 28 | 鶴岡八幡宮で、侍読「源仲章」と共に、公暁に襲われ落命。 |
実朝誕生
将軍家に男子が生まれると、次男でもお祭り騒ぎですね。
建久3(1192)年 8月9日
早朝以降、御台所(北条政子)にお産の気配があり、朝10時に男児(千幡→実朝)を出産した。
御乳付は阿野全成の妻で北条政子の妹「阿波局」
同年8月10日 2日目のお祝いを、平賀義信、三浦義澄が差配
同年8月11日 3日目のお祝いを、加賀美遠光、安達盛長が差配
同年8月12日 4日目のお祝いを、千葉常胤が差配
同年8月13日 5日目のお祝いを、下河辺行平が差配
同年8月14日 6日目のお祝いを、中原広元が差配
源実朝周辺の系図
源実朝は、父に源頼朝、母に北条政子を持つ、源氏将軍最後の一人。
源義朝 北条時政
| ┌--┴---┬
源頼朝=====北条政子 北条義時 坊門信清
├----------┬ |
源頼家 源実朝=====坊門信子
|
公暁
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
甥 公暁(幼名:善哉|ぜんざい)
建永元(1206)年 7歳 北条政子の命で善哉を猶子とする
建暦元(1211)年 12歳 善哉が出家し「公暁」と名乗り、受戒の為上洛
建保5(1217)年 18歳 園城寺で学んでいた公暁が鎌倉へ帰着、鶴岡八幡宮の別当に
建保7(1219)年 公暁(20)が実朝(28)を暗殺
源実朝ゆかりの地
大イチョウ(鶴岡八幡宮)
承久元(1219)年 1月27日
雪が積もる中、三代将軍源実朝の右大臣拝賀が行われ、鶴岡八幡宮境内で式を終えた夕方、大イチョウの陰に隠れていたとされる公暁(兄頼家の子)に暗殺された。
暗殺は事実だが、大イチョウの陰に隠れていたというのは江戸時代に創作された伝説。
歌の橋(鎌倉市)
建保元(1213)年 謀反の罪で捕まった渋川刑部六郎兼守は、無実の罪を晴らすために十種の和歌を詠み、実朝に許しを得たお礼に「歌の橋」を架けた。
寿福寺(鎌倉市)
鎌倉五山第三位の臨済宗建長寺派の寺院。
開山の栄西は、実朝に「喫茶養生記」を献上。禅宗と喫茶の儀礼が広まっていく契機となった。
源実朝・北条政子の墓
寿福寺境内の奥にある墓地には、源実朝と北条政子の墓が隣同士にあります。
大慈寺(鎌倉市)
今は廃寺となってしまったが、実朝の戒名「大慈寺殿正二位丞相公神儀」が寺名の由来。
当時は新御堂と言われていたほど大きな寺院だった。
由比ヶ浜
建保5(1217)年4月17日(吾妻鏡)
源実朝は、宋国に行くため、陳和卿に命じて唐船を作らせ由比浦に浮かべようとしたが、ココの地形は唐船が出入りできるような浦ではなく、浮かべることが出来なかった。その後、舟は朽ちた。
なお、実朝は陳和卿に前年の建保4(1216)年 6月15日に初めて会い、同年11月24日に唐船を造るように陳和卿に命じた。宋の医王山に参拝するためで、従者60余人も決定。
「馬鹿なことをするな」と北条義時と大江広元が咎めたが、実朝は聞く耳を持たなかったという。
舩玉神社(藤沢市大鋸)
この神社の前の道が鎌倉街道で腰越~深沢~鎌倉へのルート。
昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていて、実朝が命じた唐船の木材を切り出したところと伝わります。
源実朝公御首塚(秦野市)
▶ 秦野市東田原1018-2|駐車場:有り(田原ふるさと公園)|
秦野市にある源実朝公御首塚
公暁が殺された後、行方不明だった実朝の首がどうなったのかは、吾妻鏡には一切触れられていないが、新編相模国風土記稿には、三浦一族の武常晴がこの地に持ってきたとあります。
神武寺(逗子市)
▶ 逗子市沼間2-1402|駐車場:無し|
建久3(1192)年 8月9日
北条政子が御産(実朝)の気配があった後、鶴岡八幡宮や相模国の神社仏寺に神馬を献じて誦経が修された。
寺務寺(神武寺)もその一つ。
初島(熱海市)
▶ 熱海市初島572|駐車場:無し(そもそもレンタカー等なし)
源実朝が二所詣で(箱根権現・伊豆山権現)箱根路を越えて伊豆山にやってきた時、十国峠から見える初島に波が寄っている景色に感動して作った和歌の歌碑が、初島の中心部「初島公園」の中に建っています。
大通寺(京都)
▶ 京都市南区西九条比永城町1|駐車場:無し|一般非公開
承応元(1222)年、源実朝の妻(坊門信子|本覚尼)が夫(実朝)の菩提を弔う為に建立。