【尾張国 野間】源義朝公(頼朝の父)終焉の地巡り|愛知県知多郡美浜町野間

【尾張国 野間】源義朝公(頼朝の父)終焉の地巡り|愛知県知多郡美浜町野間

今回は愛知県の知多半島まで。
源頼朝の父「源義朝」の最後の地、そして、頼朝が伊豆国へ流罪になるまでの流れを纏めてみました。

頼朝の父「源義朝」最期の地(YouTube)

源義朝、終焉直前直後の簡易年表

源義朝が、平治の乱で敗北し、自害しようとしたところ鎌田政清に止められ東国へ落ち延びてから、尾張国野間で誅殺されるまでを簡易年表でまとめてみました。

年代日時出来事
平治元(1159)年12月26日平治の乱で、源義朝(源氏軍)の敗北が確定
12月26日 PM東国への逃避行を開始
12月27日雪の伊吹山を越える途中で頼朝が落伍、青墓宿に到着
12月28日青墓宿で動けなくなった朝長(義朝次男)を殺害
12月29日野間内海荘の庄司「長田忠致」の屋敷に到着
平治2(1160)年鎌田正清、舅に呼ばれて、景致に誅殺される
正月3日 早朝義朝、湯殿にて長田の郎党7,8人に誅殺される
正月5日渋谷金王丸、義朝の愛人常盤御前の元へ行き、義朝の死去を伝える

後日

文治元(1185)年9月3日

午前0時 源義朝の遺骨に鎌田正清の首を副えて、御輿で運ばれ、南御堂(勝長寿院)の地に葬った。

文治元(1185)年10月24日

勝長寿院の落慶供養が行われた。御家人の中でもとりわけ健士を選び、辻々を警護させた。

勝長寿院|父「源義朝」を弔う為に創建された大寺院(石碑を読む)

今回は源頼朝が創建した「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)」の石碑を読んでみました…
1192-diary.com

建久元(1190)年10月25日 源頼朝が上洛の途中に大御堂寺に立ち寄る

建久元(1190)年11月07日 源頼朝が入京

登場人物の関係図

                 鎌田政清の母        長田忠致
           ┌--乳母--┘  |          ├----┐
          源義朝       鎌田政清=====長田忠致の娘 長田景致
 ┌---------┤         |
源義平  源朝長  源頼朝       鎌田政直
           ├---┐
          源頼家  源実朝

鎌田政清(かまた まさきよ)

1123-1160
鎌田政清の母が、源義朝の乳母だった関係で乳兄弟として、第一の郎党として最も信頼された人物。
政家、正清、正家とも伝わる。源義朝と同い年、保安4(1123)年生まれ。

源義朝と命からがら尾張国野間の領主だった長田忠致の館にたどり着くと「ゆっくりしてきなされ」と言われ、
政清は舅の忠致に誘われて、酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子「景致」の手にかかって殺された。

次男に鎌田政直(かまた まさなお)がいて、尾張国野間の「安養院」の本尊「阿弥陀三尊仏」は、父の菩提を弔うための念持仏と伝わる。

野間大坊(大御堂寺)にも、勝長寿院跡にも、源義朝の墓・供養塔の側には鎌田政清のお墓がある。

勝長寿院|父「源義朝」を弔う為に創建された大寺院(石碑を読む)

今回は源頼朝が創建した「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)」の石碑を読んでみました…
1192-diary.com

長田忠致(おさだ ただむね)

生年不詳-1190頃
桓武平氏良兼流。尾張国野間を本拠地として、平治年間には源氏に従っていた。

鎌田政清の舅だったため、東国への逃避行中に身を寄せるも、恩賞目当てに義朝を風呂場で誅殺した。
また、同時に政清も殺害する。(政清を殺害したのは、子の景致)

その後、頼朝挙兵後に御家人に列して武功を挙げるも、最終的には父誅殺を許されることなく、野間のはりつけの松にて、子の景致とともに惨殺された。

渋谷金王丸(しぶや こんのうまる)

1141-1185
渋谷平三家重の子、近江源氏の佐々木秀義を匿った渋谷重国とは兄弟か?
平治物語では、源義朝の死を愛妾である常盤御前に伝えた郎党が渋谷金王丸としている。

その後、渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。
(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)

土佐坊昌俊|京都にいる源義経を襲った家族思いの鎌倉武士(石碑を読む)

今回は住宅地の中に申し訳なさそうに設置してある石碑「土佐坊昌俊」を読んでみました…
1192-diary.com

源義朝ゆかりの史跡(尾張国野間)

野間大坊(大御堂寺)

▶ 愛知県知多郡美浜町野間東畠50|🅿あり|拝観無料|

正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)

平康頼が義朝の墓が荒れてるのを悲観し、田を寄進、僧を置いて供養に当たらせた。

建久元年(1190)に源頼朝公が、亡くなった源義朝公の菩提を弔うために、開運延命地蔵尊(お地蔵様)と不動明王・毘沙門天を納め、そして七堂伽藍を造営。

源義朝の墓

入浴中の裸の義朝公を風呂場にて斬りつけて命を奪った長田父子。
武芸の達人だった義朝公は「我に木の太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」と言って絶命。

後世の人々は義朝公の菩提を弔うため、お墓に花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなった。

法山寺

▶ 愛知県知多郡美浜町野間田上50|🅿?|拝観無料|

源義朝が誅殺された湯殿跡を包する寺院。臨済宗天龍寺派。
ご本尊が御湯殿薬師如来(おゆどのやくしにょらい)

湯殿跡

宝山寺の本堂に先にある階段を下った場所にある、伝源義朝公最期の地とされる。
平治2(1160)年正月3日 初湯に招かれその入浴中に長田父子(その郎党)に誅殺された。

密蔵院

▶ 愛知県知多郡美浜町野間松下105|🅿あり|拝観無料|

かつては、大御堂寺(野間大坊)の一山十四坊の一つとして「宝乗坊」と号した。
知多四国第五十二番札所。真言宗豊山派。

安養院

▶ 愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ90-1|🅿?|拝観無料|

かつては、大御堂寺(野間大坊)の一山十四坊の一つとして「南ノ坊」と号した。
本尊は阿弥陀三尊仏。鎌田政清の次男「政直」が父の菩提を弔うための念持仏だそう。

法恩寺

▶ 愛知県知多郡美浜町奥田会下前39|🅿あり|拝観無料|

鎌田政清の母(義朝の乳母)が、子「政清」の菩提を弔う為に建立した寺。
知多四国霊場第五十七番札所

乱橋跡

▶ 愛知県知多郡美浜町野間新大町|🅿なし

源義朝公が湯殿で誅殺されたという大事を聞いた家来「渋谷金王丸」らが、湯殿にかけつけるとき長田の家臣らとこの地にあった橋のあたりで乱戦し、後に「乱橋」と言われるようになった。

湯殿跡までは約300m程度の距離にある。

長田屋敷跡

▶ 愛知県知多郡美浜町野間新松下|🅿なし

平治年間(1159年〜1160年)の、長田忠致・景致父子の屋敷と伝えられる。
現在は宅地や田畑となり遺構は残っていません。

はりつけの松跡地

▶ 愛知県知多郡美浜町野間松下105|🅿なし

源頼朝が、長田忠致・景致父子を捕らえて、この松にはりつけにし惨殺したと伝えられている。
はりつけ松跡地の裏から、山道を100m進むと密蔵院の裏手に出ます。

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

PAGE TOP