鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治「建武の新政」を始めた第96代天皇・後醍醐天皇。
しかし、その後は足利尊氏と対立し、京都を離れて吉野へ。
南北朝時代の幕開けへとつながっていきます。
今回は、鎌倉の宝戒寺をはじめ、笠置山、吉野神宮、吉水神社、如意輪寺など、後醍醐天皇ゆかりの地を実際に訪ねました。
今回はその足跡をたどりながら、鎌倉幕府滅亡から南朝成立までを整理します。
目次
後醍醐天皇とは?
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
1288~1339年。第96代天皇。
鎌倉幕府を倒して建武の新政を開始。その後、足利尊氏との対立から吉野へ移り、南朝を開きました。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1333年 | 鎌倉幕府を滅ぼす |
| 1334年 | 後醍醐天皇による建武の新政始まる |
| 1336年 | 足利尊氏が室町幕府開府し、後醍醐天皇が京を脱し吉野に入る |
| 🕒ここに南北朝が始まる | |
| 1339年 | 後醍醐天皇崩御。後村上天皇が引き継ぐ。 |
| 1392年 | 南北朝合一 |
建武の新政はたった3年で終わってしまいます。。。
後醍醐天皇周辺の系図
後醍醐天皇には多くの皇子・皇女がいました。その中には鎌倉と深い関係を持つ人物もいます。

護良親王
第3皇子。
天台座主から還俗して父の倒幕運動を支えました。その後、足利尊氏との対立などから失脚し、鎌倉へ送られます。
用堂尼
後醍醐天皇の皇女。
東慶寺第5世となり、兄弟にあたる護良親王の菩提を弔ったと伝わります。
後村上天皇
1328-1368年。97代天皇&南朝2第天皇。後醍醐天皇の第7皇子。
鎌倉幕府倒幕へ
後醍醐天皇が即位した頃、政治の実権は鎌倉幕府が握っていました。
後醍醐天皇は天皇自らが政治を行うことを目指し、次第に鎌倉幕府との対立を深めていきます。
最初の倒幕計画が発覚した「正中の変」、そして再び幕府打倒へ動いた「元弘の変」。
二度にわたる倒幕運動が、やがて約150年続いた鎌倉幕府の滅亡へとつながっていきます。
正中の変
1324年(正中元年)、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の計画が発覚しました。
日野資朝・日野俊基ら後醍醐天皇の側近が幕府に捕らえられ、倒幕計画への関与を疑われました。
しかし、この時は後醍醐天皇自身の責任までは問われず、天皇の地位を失うこともありませんでした。
倒幕計画は失敗に終わりましたが、後醍醐天皇が幕府を倒そうとする動きを止めたわけではありません。
むしろ正中の変は、その後のさらに大きな倒幕運動への序章となります
元弘の変
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が再び進めていた倒幕計画が幕府側に知られます。
後醍醐天皇は京都を脱出し、現在の京都府南部にある笠置山へ逃れて挙兵しました。
笠置山には後醍醐天皇に味方する武士たちが集まりましたが、幕府の大軍による攻撃を受けて陥落。
後醍醐天皇は捕らえられ、翌1332年に隠岐へ流されました。
これで倒幕運動は終わったかに思われました。
ところが各地では、後醍醐天皇の皇子・護良親王や楠木正成らが幕府への抵抗を続けます。
そして1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出。
幕府から後醍醐天皇討伐のために派遣された足利尊氏が後醍醐天皇側へ転じ、京都の六波羅探題を攻撃。さらに東国では新田義貞が挙兵し、鎌倉へ進軍します。
後醍醐天皇が二度にわたって進めた倒幕運動は、ついに鎌倉幕府そのものを揺るがす戦いへと発展していきました。
鎌倉幕府滅亡
1333年、後醍醐天皇の倒幕運動は大きく動き始めます。
後醍醐天皇自身は一度は隠岐へ流されましたが、その間にも各地では幕府に抵抗する動きが続いていました。そして後醍醐天皇が隠岐を脱出すると、幕府側にいた有力武士までが次々と倒幕へ動きます。
約150年続いた鎌倉幕府を滅亡へ導いたのは、後醍醐天皇一人ではありませんでした。
足利尊氏|六波羅探題を攻略
鎌倉幕府から後醍醐天皇討伐のために派遣されながら、幕府に反旗を翻した足利尊氏。京都の六波羅探題を攻め落とし、幕府の京都における拠点を失わせました。
新田義貞|鎌倉を攻略
関東で挙兵した新田義貞は鎌倉へ進軍。幕府軍との激戦の末に鎌倉を攻略し、北条高時をはじめとする北条一族は東勝寺で最期を迎えました。
楠木正成|幕府軍を苦しめた武将
後醍醐天皇の倒幕運動を早くから支えた楠木正成。河内の千早城などを拠点に幕府の大軍と戦い、各地で反幕府勢力が立ち上がる時間をつくりました。
護良親王|各地に倒幕を呼びかけた皇子
後醍醐天皇の皇子・護良親王も、父の倒幕運動を支えた重要人物です。吉野などを転戦しながら幕府への抵抗を続け、各地の武士に倒幕を呼びかけました。
鎌倉に残る後醍醐天皇ゆかりの地
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇。その足跡は、幕府の本拠地だった鎌倉にも残されています。
宝戒寺
天台宗。ハギが有名で「ハギ寺」とも。
後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて建立。北条氏の執権屋敷跡。


南朝の始まり「吉野」|後醍醐天皇ゆかりの地
足利尊氏との対立に敗れた後醍醐天皇は、京都を離れて奈良・吉野へと移ります。ここに朝廷を置いたことで、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ「南北朝時代」が始まりました。
ここからは実際に吉野を歩きながら、後醍醐天皇と南朝ゆかりの地をたどっていきます。
如意輪寺
浄土宗。本尊が如意輪観音菩薩。後醍醐天皇の勅願寺。
太平記に、楠木正行(くすのきまさつら)が、辞世(じせい|この世に別れを告げること)の歌を如意輪堂の扉に刻んで出陣したと書いてるみたいです。
※楠木正行:南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。
出陣とは、1348年の足利軍の高師直と戦った四条畷の戦い。君主は後村上天皇。
賀名生皇居跡
読みにくいですけど、賀名生=「あのう」です。
建武の新政に失敗した後醍醐天皇から、京都から逃げ出してまず留まった場所がココ。
その後、吉野山に移るんですね。
賀名生は梅林で有名。
大和三大梅林は、月ヶ瀬(奈良市)、広橋(下市町)、賀名生(五條市)。
吉水神社
ご祭神は後醍醐天皇。
もともとは吉野修験宗の僧坊でしたが、明治時代の神仏分離で神社になりました。

2004(平成16)年登録の、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成施設の一つ。
吉野山~熊野三山に至る参詣道が大峰奥駈道で、役行者が開いた修験者の修行道。
後醍醐天皇の行宮(あんぐう|一時的な宮殿)。
1185年:源義経は静御前・弁慶らとここに逃げ、義経潜居の間がある。「吾妻鏡」より。
1594年:豊臣秀吉の花見本陣。
最古と言われる重要文化財の書院造の建造物がある。
吉野神宮
明治22年創建。後村上天皇の勅命で刻まれた後醍醐天皇像がご神体。
後醍醐天皇の心を偲び、京都に向かって北向きに建てられている。
五條・吉野には他にも沢山の神社やお寺がありますが、後醍醐天皇ゆかりの地ってそれほど多くありませんでした。
吉野は昔の天武・持統天皇の時代から役行者の修験道などの長い歴史があるので、時代区分をしっかり理解してないと、混乱のもとになりますね!
まずは南北朝時代の吉野をしっかり整理して抑えて、次の時代へアプローチですね。
鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めながら、やがて足利尊氏と対立して吉野へ。
後醍醐天皇の生涯をたどると、鎌倉時代の終わりから南北朝時代へ、日本の歴史が大きく動いていく様子が見えてきます。
そして、その物語は後醍醐天皇一人では終わりません。護良親王や用堂尼など、その子どもたちの足跡も鎌倉に残されています。
本WEBサイトでは、彼らのゆかりの地も実際に訪ねながら、この時代をもう少し深く追いかけていきます。
奈良まほろばソムリエ検定(奈良通2級)
鎌倉と同じ古都である「奈良」についてもっと詳しくなりたいと、鎌倉との関連を詳しく知りたいと、と言うことで、奈良検定も受験しました。
最下級の2級に合格してからは、コロナのせいで試験が中止になって、1級へは進めないでいますが・・・。
KAGOLABO選書・・・後醍醐天皇と南北朝をもっと知る
この記事に関連する書籍の中から、KAGOLABOがおすすめする3冊をご紹介します。
🥇 まずは映像で南北朝の世界へ
後醍醐天皇、足利尊氏、護良親王など、複雑な人物関係と時代の流れを映像でつかみたい人におすすめ。南北朝時代への入口として楽しめる作品です。
🥈 物語から南北朝時代を読み解く
鎌倉幕府の滅亡から建武の新政、南北朝の動乱へ。
後醍醐天皇を取り巻く武将や公家たちの物語を、もう一歩深く知りたい人におすすめです。
🥉 後醍醐天皇ゆかりの吉野を歩く
吉野神宮、吉水神社、如意輪寺など、後醍醐天皇の足跡を実際に訪ねてみたい人へ。
歴史を知ったあとに「現地へ行く」ための一冊です。

